第87回アカデミー賞授賞式  87th The Oscars

●「第87回アカデミー賞授賞式  87th The Oscars」
2015 22nd Feb. at Dolby Theater,Hollywood,Los Angels.
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<評価:★★★★★★★★★☆>
<感想>
毎年ABCテレビによって放送され日本ではWOWOWが独占放送する授賞式の模様。
毎年楽しみにして観ているが、今年も良かった。なんといっても

「そこには一流がある」

ハリウッドのお祭り騒ぎ、というスルーな見方もあるでしょう。それはそれで愉しめば
いいのですが、実はアメリカという国を観るのにこんないい舞台もないと思うのです。
いろんな意味でです。
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授賞式は華々しい舞台(CGとの合成も見事)に現れたのはトニー賞主演男優賞にも
輝いたニール・パトリック・ハリス。もちろん歌が上手い!映画の感動を歌い綴る。そこに
客席にいたジャック・ブラックが舞台に上がり、「ハリウッドの薄っぽさ」を皮肉る歌を
入れる・・・もうこの辺で私の涙腺は緩み始める。なんというエンターテインメント!
舞台装置、映像、歌、進行、出演者、音楽、どれをとっても超一流のオンパレードだ。

そこからの3時間はまるで夢の世界。綺羅星の如くいならぶハリウッド・スターたちが
プレゼンターになり、また受賞する・・・
みんな映画を心から愛しているんだなと感じる瞬間たちだ。
短編映画賞も、最後の作品賞も、もらえるのは同じオスカー像。なんとフェアなこと。
そして映画のバックグラウンドを支える科学技術や音楽、長年の名誉を表彰する
ジャンルもある。映画の端から端までもれなく受賞対象となっているわけだ。
結果的には「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」が主要4冠に
輝きその強さを見せつけたが、まだ見ていない本作を始め主演男優賞の「博士と
彼女のセオリー」、助演男優賞の「セッション」、脚色賞の「イミテーション・ゲーム」、
これらはこれから公開なので絶対に観る!
複数の賞を獲得した「6歳のボクが、大人になるまで。」(3時間を超える作品で
恐れをなして見に行かなかったのだなあ)と、「グランド・ブタペスト・ホテル」は見逃して
いるので、なんとかして観たい!

そして、感動的なのは受賞者のスピーチ。一応は用意してあるのだろうけど、
日本では絶対にしない、政治的主張が繰り返される。
「セルマ」では主題歌を歌ったジョン・レジェンドとコモンは、黒人の人権が50年前に
キング牧師がセルマを行進したころよりもひどくなっていると政治を批判した。
この歌の披露に際しては、会場の多くのスターが涙を流していた。
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脚本、監督、作品賞に輝いた「バードマン、あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは、メキシコ移民政策について訴え、移民国家と
して成功したアメリカを支える必要を説いた。
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主演男優賞を獲得したエディ・レッドメインはALSに対する理解を主張し、
長編ドキュメンタリー賞に輝いた「シチズンフォー」のマチルダとダークは退役軍人に
対する理解を訴えた。映画芸術科学アカデミー会長のシャーリー・ブーン・アイザックは
「表現の自由」対する信念を訴えた。
まさに、多民族国家アメリカの苦悩と栄光の縮図を観た思いだ。
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さらにエンターテインメントとして披露される歌の数々も今年は特に印象深かった。
映画にもなったアルツハイマーになったグレン・キャンベルが作った歌、そして
先にも書いた「セルマ」のテーマ「グローリー」、そしてそして、私が一番感動したのは
公開50年を迎えた「サウンド・オブ・ミュージック」のトリビュートとして登場した
レディ・ガガによる、同映画のメドレーだ。やっぱりそこには一流があった。
そして歌が終わると作曲賞のプレゼンターとしてジュリー・アンドリュースが登場する、
という演出!
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司会のギャグやユーモアには台本があるのだろうけど、受賞者のユーモアには、
日本人アジア人との差を感じる。そして、今回の授賞式を観てつくずく感じたのは
アメリカというのは、本当に移民国家、多様性国家だということだ。
表彰式で誰かも言っていたが、映画の中では「国籍、人種、宗教、学歴、性的嗜好、
ジェンダー、貧富は関係ない」と言っていたが裏返せば、アメリカはそういう問題を
抱え込み、かつ多様性をみとめながら国づくりをしてきたし、しているのだ、ということだ。
翻って日本を見る時、「多様性」を感じるDNAがないんじゃないか、と思えて来たのだ。
もちろん、アイヌや沖縄民族など日本も単一民族ではないけど、アメリカのように
移民が開拓した国ではない。そうしたなかでは「多様性」という概念は育ちづらいのでは
ないか、ということだ。もちろん偏狭な宗教観に名を借りて虐殺を繰り返すISなどは
論外である。

さらに踏み込んで考えると、太平洋戦争に突入した時期のこと、戦後の経済成長に
馬車馬のように突撃したこと、そして今またかつて来た間違った道を歩もうとしている
ように見える政治は、私達日本人が「多様性」ということを感じない国民だからか、と
考えてしまうのだ。一つのベクトルが示されると無批判に思考を停止し、お上のいう
ままに熱狂の渦の中に身をおく。そのほうが楽だもの。そして「煮え湯のカエル」と
なっていくのだ。「多様性」がDNAにないのなら、せめて「忘れない」ということに努力
しないとなるまい。それも日本人には不得意なのだが。
黒船の登場から明治維新を含め、先の敗戦、近年の対米追随、常にこの150年位は
外圧でしかまともな政治をしてこなかったわけで、それは取りも直さず日本の国民性の
反映に他ならない。

いずれにしても素晴らしいショーであった。アメリカという国の一面を見る思いだった。
そして感度もし、何度も胸が熱くなった。アメリカの全てが良いとは全く言えないが、
アメリカの強さ、とは確かにある、と思えたのだ。

ちょっと話が横にそれるが、以下も読んでいただきたい。今回の式から感じた国民が
「多様性」を理解出来るかどうかということから発想が繋がったのだが・・・。

先の敗戦後、映画監督の伊丹万作が言った言葉が忘れられない。
(1946年「戦争責任者の問題」より)

「しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。
だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがい
している人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、
「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
(中略)
いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったとしたら今度のような戦争は
成り立たなかつたにちがいないのである。

つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ
戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)
当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に
自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、
無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することが
できなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を
等しくするものである。

そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも
密接につながるものである。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。 」(攻略)
by jazzyoba0083 | 2015-02-23 21:00 | アカデミー賞 | Comments(0)