山の音

●「山の音」
1954 東宝 95分
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄 脚本:水木洋子 原作:川端康成『山の音』
出演:原節子、山村聰、上原謙、長岡輝子、杉葉子、丹阿弥谷津子、中北千枝子、金子信雄他
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<評価:★★★★★★★★★☆>
<感想>

日本を代表する映画監督、小津、黒澤、溝口、成瀬、と、この四人は基本的に洋画が
好きな私としては、食わず嫌い状態だった。3年ほど前に、WOWOWで「黒沢作品」の
大特集があり、それこそ片っ端から観て、(作品によるが)その素晴らしさに唸る一方、
未だに「どですかでん」や「乱」「デルス・ウザーラ」などは見る気には至っていない。
(理由を書くと長いので省略)
そして、割りと昔から好意は持っていて何作品かは観ていた小津作品も、機会があれば
鑑賞していて、好きな作品も多い。
ところが、成瀬と溝口は未見であった。映画という主観的な好みが大きい芸術・文化は、
本人に興味が無かったり嫌いなものを無理して見ることはない。ジャズで言えばフリージャズ
嫌いがオーネット・コールマンを我慢して聞くように。

そんな状態であったところに、最近NHKBSが原節子がらみで、成瀬巳喜男名作の誉れも
高い「山の音」を放映するという。さっそく録画し、鑑賞してみた。趣味に合わなければ
途中でやめればいいと思い。
製作されたのは1954年。この年、黒澤は「七人の侍」を製作し油が乗り切っていた。
また「ゴジラ」の第一作が作られたのもこの年である。小津は前年に名作「東京物語」を
ものしている。

そうした邦画が生き生きとしていた時期、成瀬巳喜男という人は一体どんな映画を作った
のだろう、そんな思いが去来しつつ、物語の展開を追っていった。

舞台は小津映画にも多く出てくる鎌倉。(小津は北鎌倉だけど)原節子も小津映画で
私としてはおなじみの女優さんである。
ところで、原作となった川端康成の「山の音」(川端文学の最高峰と指摘する人も多い
のだそうだ)と比べると、骨子は押さえてあるものの、結末も含め、大きく脚色されて
いるのだそうだ。私は原作は未読であるが。映画を観てからネットで原作の事をいろいろと
調べてみたが、たしかにストーリーも主人公も原節子のイメージからしてだいぶズレて
いるが、作品が言わんとするところの「大意」みたいなものは大きくは外れていないの
ではないか、とは感じた。
上原謙の冷たさがどこから来ているのか、などの背景は端折られているし、一番大きいのは
「山の音」という題名の由来が、映画からは全くわからない、という、不親切な点は
指摘されなければならないが。

黒澤や小津と並び、成瀬にも、コアなファンが沢山いらっしゃるので、トンチンカンな
ことは滅多に言えないが、川端文学の持つある種の「背徳的性的描写」は、しっかりと
受け止めることが出来た。すなわち、嫁・菊子(原節子)と、舅・信吾(山村)との
「危ない関係」の匂い、それは、原節子の目線の演技が一番強く訴えていた。さらに
山村自身、今の妻の姉を本当は好いていたのだが、妹の方と結婚することになったと
いう屈折した結婚事情から、その姉と面影が似ている菊子に恋慕の思いが本作のベースと
なっている。またダメ男と結婚し、嫁ぎ先から帰ってきてしまった娘の存在も、山村を
して原節子に心を傾けさせる要因の一つになっているようだ。

舅思いの嫁、嫁思いの舅、という太平楽のドラマではないのだ。男女の関係を「エロ」の
(というか下品になってしまう)一歩手前で、高度な恋愛観に昇華させて描いた成瀬の
力量に、私は惚れた。そのためこの映画の直後「めし」を見ることになるのだが、その
話は後日に。

菊子(原節子)の夫・修一を演じるのが上原謙である。実際の年齢は上原のほうが山村より
1つ上なのだが、ここでは上原は山村の息子である。これが不自然でないのが不思議だ。
夫・上原謙は、父親が専務をしている会社のサラリーマンであるのだが、結婚して2年と
いうのに、もう戦争未亡人の妾を持っている。それを父も母も知っている。何故嫁思いの
舅は息子を叱責しないのか、と観ている人は思うだろう。ここが原作にあって映画にない
息子修一の戦争を体験したことから来る心の傷というやつが横たわっているらしい。
原作はもっと「戦争」というものの影が落ちた構成になっているようだ。
修一は菊子が子ども子どもしていて女としての魅力に欠けると感じていて、(原節子は
凄い肉感的で大人っぽいと思うけどなあ。原作の菊子はほっそりの痩せ型)性のはけ口を
妾に求めているフシがある。

菊子は妊娠するのだが、修一へのあてつけから、周囲に知らせず堕胎してしまう。
このままではいけないと思う真吾(山村)は、自分らとは離れて暮らすことを提案するの
だが、菊子はお父様と離れては暮らせない、と切ないことを言ってくれる。
このあたりの影のある原節子の表情は、小津作品でもそうだが、一級品だなあ、とつくづく
思わせる。
原作では、真吾が能面を菊子に付けさせると、その面のしたから涙が筋となって流れて
くるところが非常に重要なメタファーとして描かれているのだそうだが、映画では能面を
付けるシーンはあるが、作品の内容のベクトルを示すほどの重要性を持っては扱われて
いない。映画のハイライトはやはりラストの新宿御苑での、真吾と菊子が語る未来への
展望だろう。vistaだっけ?

成瀬の画作りは、パースペクティブと、黄金律を活かした計算された画面。人物を重ねて
奥行きを出したり、(ナメとはちょっと違う)フレームインフレームアウトもリズムが良い。
小津のような特徴は無いが、計算された画面は落ち着いていて、作劇と作画がうまく
シンクロ出来ていると思う。「めし」は見たから「浮雲」とか他の作品も観てみたくなった。

作品にはまったく関係ないが、真吾が専務車で菊子を(堕胎するとは知らず)病院に送る
東京の当時の光景に四ッ谷の上智大学・イグナチオ教会が写っていたと思うのだが、違うかなあ。
成瀬監督、生まれは四ッ谷だし。
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<ストーリー:映画のストーリーとは少し違います>
六十二という齢のせいか、尾形信吾は夜半、よく目がさめる。鎌倉の谷の奥--満月の
しずかな夜など、海の音にも似た深い山の音を聴いて、彼はじぶんの死期を告げられた
ような寂しさをかんじた。
信吾は少年のころ、妻保子のわかく死んだ姉にあこがれて、成らなかった。息子修一
にむかえた嫁菊子に、かつての人の面影を見いだした彼が、やさしい舅だったのは
当然である。

修一は信吾が専務をつとめる会社の社員、結婚生活わずか数年というのに、もう他に
女をつくり、家をたびたび開けた。社の女事務員谷崎からそれと聴いて、信吾は
いっそう菊子への不憫さを加える。
ある日、修一の妹房子が夫といさかって二人の子供ともども家出してきた。信吾は
むかし修一を可愛がるように房子を可愛がらなかった。それが今、菊子へのなにくれと
ない心遣いを見て、房子はいよいよひがむ。子供たちまで暗くいじけていた。
ひがみが増して房子は、またとびだし、信州の実家に帰ってしまった。
修一をその迎えにやった留守に、信吾は谷崎に案内させ、修一の女絹子の家を訪ねる。

谷崎の口から絹子が戦争未亡人で、同じ境遇の池田という三十女と一緒に自活していること、
修一は酔うと「おれの女房は子供だ、だから親爺の気に入ってるんだ」などと放言し、
女たちに狼籍をはたらくこと、などをきき、激しい憤りをおぼえるが、それもやがて
寂しさみたいなものに変っていった。女の家は見ただけで素通りした。帰ってきた
房子の愚痴、修一の焦燥、家事に追われながらも夫の行跡をうすうすは感づいている
らしい菊子の苦しみ--尾形家には鬱陶しい、気まずい空気が充ちる。菊子は修一の
子を身ごもったが、夫に女のあるかぎり生みたくない気持のままに、ひそかに医師を
訪ねて流産した。大人しい彼女の必死の抗議なのである。と知った信吾は、
今は思いきって絹子の家をたずねるが、絹子はすでに修一と訣れたあとだった。
しかも彼女は修一の子を宿していた。めずらしく相当に酔って帰った信吾は、菊子が
実家にかえったことをきく。菊子のいない尾形家は、信吾には廃虚のように感じられた。
二、三日あと、会社への電話で新宿御苑に呼びだされた信吾は、修一と別れるという
彼女の決心をきいた。菊子はむろんのこと信吾も涙をかんじた。房子は婚家にもどる
らしい。信吾も老妻とともに信州に帰る決心をした。(Movie Walker)

この映画の詳細はhttp://movie.walkerplus.com/mv23724/こちらまで。


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by jazzyoba0083 | 2017-04-26 22:50 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)