カテゴリ:邦画・旧作( 52 )

独立愚連隊

●「独立愚連隊」
1959 日本 東宝映画 配給:東宝 109分
監督・脚本:岡本喜八
出演:佐藤允、中谷一郎、上村幸之、三船敏郎、中丸忠雄、南道郎、瀬良明、雪村いずみ、鶴田浩二、他
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<評価:★★★★★★★☆☆☆>
<感想>
岡本喜八の作品はだいぶ時代が下ってからの「大誘拐RAINBOW KIDS」以外に観ていないので
特に贔屓ではないが、邦画の監督を語る上で外せない人の一人ではある訳で、この夏、WOWOWで
何本か放映があったので、録画して鑑賞してみた。

この映画は題名だけは知っていたが前知識は無しで見てみた。古い映画は音が聞こえづらい。
加えて軍関係の専門用語が入るので余計に分からない。よって後半からは字幕を付けて見た。

さて、普通のことはしない岡本喜八の出世作となった本作は、勝新太郎の軍隊モノとはまた趣が
違い、ユーモアと社会を斜にみたような作り方に特徴がある。先の戦争において満州でこの映画の
ようなことはありえないのだが、そこが岡本流なんだろう。それが岡本流戦争批判なのであろう。
かれは後に「日本の一番長い日」というオーソドックスな戦争映画を撮ることになる。

冒頭登場した佐藤允が何者なのか分かるまでにしばらく時間がかかる。しかし従軍記者ってあんなに
態度でかくて大丈夫なのっていうか、周りの将校を含め兵隊が、敬意を払う存在だったのだろうか?
(実は従軍記者ではないんだけど)

主人公の大久保はある部隊から脱走し、従軍記者になりすまして、兄の心中の真相を突き止めに
やってきたのだ。その一部始終が、資料によると、戦争西部劇ふうなタッチで描かれていく。
戦争映画が持つ重々しさ、帝国陸軍の持つ陰湿さ、そいうこれまで定形とされた軍の描き方では
なく、慰安婦や、馬賊も加わり、謎解き(というほどでもない)もあり、なかなかダイナミックに
描かれている。今見るとそう面白くも感じられないが、封切られた昭和34年はまだまだ世の中には
戦争映画に対する思い入れのある人が多く、本作は大ヒットし、「独立愚連隊西へ」という続編も
作られたという。岡本喜八の荒削りながらも旧来にない演出、役者の使い方などよく分かる映画。
岡本のこのシリーズは「血と砂」までの8本とされるが、あとは「血と砂」くらい見ればでいいかな
と思っている次第。
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<ストーリー:結末まで触れています
終戦近い北支戦線を舞台に、弟の死因を究明にやって来た元鬼軍曹の活躍を描いた日本版西部劇。
「ある日わたしは」の岡本喜八が助監督時代に書いた脚本を自ら監督した。撮影は「青春を賭けろ」の
逢沢譲。

第二次大戦も末期、北支戦線の山岳地帯で敵と対峙している日本軍に、独立愚連隊と呼ばれる小哨隊があった。
正式には独立第九〇小哨だが、各隊のクズばかり集めて作った警備隊なので、この名称があった。
独立愚連隊に行くには、敵の出没する危険な丘陵地帯を行かねばならない。この死地へ、新聞記者の腕章を
巻き、戦闘帽に中国服姿の男が馬を走らせていた。大久保という元軍曹だが、愚連隊小哨長をしていた弟の
死因を究明するために、入院中の北京の病院を脱走して来たのだ。従軍記者荒木となのっていた。

彼には弟が交戦中に情婦と心中したという発表は信じられなかった。彼は生前弟が使用していた居室から、
弟の死因となったピストルの弾を発見した。心中なら二発ですむわけだが、弾はいくつも壁にくいこんでいた。
部屋で死んだのだから、敵ではなく部隊内の誰かが犯人だ。
戦況はすでに破局に達していた。死んだ梨花の妹でヤン小紅という娘が現われた。荒木は、彼女から姉の形見だ
という紙片を見せてもらった。大久保見習士官が死ぬ直前に、部隊長宛に綴った意見具申書だった。
橋本中尉の不正を列挙し、隊の軍規是正を望むものだった。橋本中尉は、自分の不正がばれるのを恐れて
大久保を殺し、心中の汚名を着せたのだ。しかし、荒木の身許が橋本にバレた。荒木の北京時代の恋人で、
今は将軍廟で慰安婦をしているトミが荒木を追って来た。そして彼女は将軍廟の橋本からかかって来た電話に
出て、荒木の本名を口走ってしまったのだ。将軍廟に向うトミと荒木を乗せたトラックは途中で敵の砲撃を受け、
トミは死んだ。荒木も将軍廟に着くと営倉に投げこまれた。しかし、脱出して橋本を撃った。

--敵の大軍が押し入った。しかし、荒木は不思議に死ななかった。彼は馬賊の群に投じ、はるか地平線の
彼方に消えて行った。(Movie Walker)



by jazzyoba0083 | 2017-08-06 23:40 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

めし

●「めし」
1951 日本 製作・配給:東宝 97分 モノクロ
監督:成瀬巳喜男 原作:林芙美子 監修:川端康成
出演:原節子、上原謙、島崎雪子、杉葉子、風見章子、杉村春子、小林桂樹、大泉滉他
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<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>

「山の音」に次いで鑑賞した成瀬作品の2作目。「山の音」から3年前、私が
生まれる前年の作品。登場人物が重なり、男女の心のもつれを描くものだから
連続して見なければ良かったな、と反省。ストーリーが混乱してしまった。
(話としては全然違うが原と上原という夫婦の組み合わせは同じなので)

さて、本作は、林芙美子が朝日新聞に連載中に亡くなったため、監修を川端康成が
担当している。故にエンディングの創作は、川端や成瀬、脚色した田中澄江らの
思惑であって、林芙美子が、本作のようにハッピーエンドにしようとしていたかどうかは
不明である。

それにしても、現代の女性の考えと大きく違う当時の「夫婦」という状況や「女性」
というものの社会における立場を考えないと、大きな違和感が残るだろう。

東京出身者が転勤で大阪に暮らす。恋愛結婚とはいえ、証券マンとしての旦那の
稼ぎは良くなく、長屋に住まい、やりくりは大変。夫は帰れば「めし」。
妻・三千代(原節子)は、「このような女中のような暮らしが自分が求めていた
ものでは無いはずだ」と日々の夫婦生活に不満が溜まっている。
そこに、夫の姪っこ、里子(島崎雪子=いい演技だと思う)の登場、夫にシナを
作る姪、それをあまり憎からず思う夫、それを見てまた不満や怒りが湧く三千代。

臨界点に達した三千代は里子を東京に送っていくと称して、実家に帰る。母と
過ごす時間はストレスから開放され、次第に自分も独立して何かをしたいと
考えるようになる。これを打ち砕くのが、職安で偶然出会う旧友の山北けい子
(中北千枝子)であった。戦地から夫の帰還を待つ身であるが、小さい子供と
なんとか食っていかなくてはならない。「あなたのような幸福な奥さんにこんな
惨めな話ばかりしちゃって」と言われてしまう。

と、三千代は大阪に残した夫に手紙を書く。
「あなたの傍を離れるということが、どんなに不安に身を置くことか、やっと
分ったようです・・・」
後日、山北とその子が、駅頭で新聞売をしている姿を見てしまう。こんな女性も
いるのに、自分は・・。

自分は夫のそばにいてこそ幸福をつかめるのだ、それでいいのだ。と考えるように
なっていく。

そんなある日、夫が出張と称して三千代を迎えに来た(らしい)。くたびれた
革靴が玄関にあった。外出して、店でビールを飲む。
夫はお金のこともあり転職を考えていたらしく、妻と相談する、と言ってある、
という。三千代は「いいのに、あなたがお決めになって」というが、夫は
「そりゃね、ボクだって君が苦労しているのはわかっているんだけど」と返す。
そんな会話の中で、三千代は、自分の幸せは、この人と添い遂げることにあるのだ
と納得していく。帰りの列車の中、居眠りしている夫の横で、三千代は夫に書いた
手紙を破いて窓から捨てたのだった・・・。

この映画は主人公三千代のナレーションが入るのだが、ラストはこうだ。
「私の傍に夫がいる。眼を瞑っている。平凡なその横顔。生活の川に泳ぎに疲れ、
漂って、しかもなお闘って、泳ぎ続けている一人の男。その男の傍に寄り添って、
その男と一緒に幸福を求めながら生きていくことにした。
そのことは、私の本当の幸福なのかも知れない。女の幸福とは、そんなものでは
ないのだろうか」

懸命に生きようとする男の姿に、自分の幸せを重ねることで自身の幸福を見出した
三千代だったのだ。(あるいは何処か覚めた諦め、であったか)

どうだろう、現代の女性がこの結論めいたナレーションを聞くと、「そうじゃない
でしょ?」と言いたくなるのではないだろうか。しかし、時代は昭和26年である。
冒頭書いたように、女性、妻、嫁、という当時の社会的立場を考慮すれば、三千代の
ような結論が間違いであると誰がいえよう、というか、その結論こそ、ハッピーエンド
であると、観客には受け入れられたのではないか。(夫のヘタレぶりはもう少しなんとか
せいよ、という指摘は今でも通じるが)
もうひとり、男性で、夫の従兄の一夫(二本柳寛)が、里子とは逆の意味で、三千代
夫婦の愛情をもつれさせるファクター(メタファー)として重要である。

ラストのセリフはどうも川端康成の匂いがする。
それにつけても、主役の二人、いいです。成瀬監督は演技に対してほとんど細かいことを
指示しなかったそうだ。故に、原の顔の表情に伴う目線の上げ下げ、などは原自身の
演技だったようだ。小津作品の原とは違い、2作しか見ていないが、成瀬作品の原は
「艶」というか、もっと言えば「性的」さらに言えば「エロ」を感じる。この作品に
原が適切かどうか、は意見が別れるかもしれないが、原ならではの「めし」が出来た、
といえよう。同じ年に小津作品の「麦秋」が作られているが、同じ原節子でも、成瀬
作品のほうが、圧倒的に色っぽい。
そして上原のヘタレぶり。「山の音」でもそうだったが、天下の二枚目スターだった
んでしょ?この馬鹿っぷりはいい味です。

黒澤作品には欠かせない早坂文雄の音楽。この映画では饒舌過ぎると感じた。終始
流れっぱなしという感じ。一瞬音楽なしになるところでのショック的効果が感じとられる
ところもあるが、やはり饒舌ではなかったか。

成瀬作品、更に見てみたくなりました。
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<ストーリー>

林芙美子の未完の絶筆を映画化した成瀬巳喜男の戦後の代表作のひとつ。繊細にして
リアルな女性描写は、成瀬演出の真骨頂と言われている。
ノーベル賞作家・川端康成が監修を担当。


 恋愛結婚をした岡本初之輔と三千代の夫婦も、大阪天神の森のささやかな横町に
つつましいサラリーマンの生活に明け暮れしている間に、いつしか新婚の夢もあせ果て、
わずかなことでいさかりを繰りかえすようにさえなった。
そこへ姪の里子が家出して東京からやって来て、その華やいだ奔放な態度で家庭の
空気を一そうにかきみだすのであった。
三千代が同窓会で家をあけた日、初之輔と里子が家にいるにもかかわらず、階下の
入口にあった新調の靴がぬすまれたり、二人がいたという二階には里子がねていた
らしい毛布が敷かれていたりして、三千代の心にいまわしい想像をさえかき立てる
のであった。
そして里子が出入りの谷口のおばさんの息子芳太郎と遊びまわっていることを
三千代はつい強く叱責したりもするのだった。家庭内のこうした重苦しい空気に
堪えられず、三千代は里子を連れて東京へ立った。

三千代は再び初之輔の許へは帰らぬつもりで、職業を探す気にもなっていたが、
従兄の竹中一夫からそれとなく箱根へさそわれると、かえって初之輔の面影が
強く思い出されたりするのだった。その一夫と里子が親しく交際をはじめたことを
知ったとき、三千代は自分の身を置くところが初之輔の傍でしかないことを改めて
悟った。その折も折、初之輔は三千代を迎えに東京へ出て来た。平凡だが心安らかな
生活が天神の森で再びはじめられた。(Movie Walker)


この映画の詳細はhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=135568こちらまで。


by jazzyoba0083 | 2017-04-28 22:30 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

山の音

●「山の音」
1954 東宝 95分
監督:成瀬巳喜男 製作:藤本真澄 脚本:水木洋子 原作:川端康成『山の音』
出演:原節子、山村聰、上原謙、長岡輝子、杉葉子、丹阿弥谷津子、中北千枝子、金子信雄他
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<評価:★★★★★★★★★☆>
<感想>

日本を代表する映画監督、小津、黒澤、溝口、成瀬、と、この四人は基本的に洋画が
好きな私としては、食わず嫌い状態だった。3年ほど前に、WOWOWで「黒沢作品」の
大特集があり、それこそ片っ端から観て、(作品によるが)その素晴らしさに唸る一方、
未だに「どですかでん」や「乱」「デルス・ウザーラ」などは見る気には至っていない。
(理由を書くと長いので省略)
そして、割りと昔から好意は持っていて何作品かは観ていた小津作品も、機会があれば
鑑賞していて、好きな作品も多い。
ところが、成瀬と溝口は未見であった。映画という主観的な好みが大きい芸術・文化は、
本人に興味が無かったり嫌いなものを無理して見ることはない。ジャズで言えばフリージャズ
嫌いがオーネット・コールマンを我慢して聞くように。

そんな状態であったところに、最近NHKBSが原節子がらみで、成瀬巳喜男名作の誉れも
高い「山の音」を放映するという。さっそく録画し、鑑賞してみた。趣味に合わなければ
途中でやめればいいと思い。
製作されたのは1954年。この年、黒澤は「七人の侍」を製作し油が乗り切っていた。
また「ゴジラ」の第一作が作られたのもこの年である。小津は前年に名作「東京物語」を
ものしている。

そうした邦画が生き生きとしていた時期、成瀬巳喜男という人は一体どんな映画を作った
のだろう、そんな思いが去来しつつ、物語の展開を追っていった。

舞台は小津映画にも多く出てくる鎌倉。(小津は北鎌倉だけど)原節子も小津映画で
私としてはおなじみの女優さんである。
ところで、原作となった川端康成の「山の音」(川端文学の最高峰と指摘する人も多い
のだそうだ)と比べると、骨子は押さえてあるものの、結末も含め、大きく脚色されて
いるのだそうだ。私は原作は未読であるが。映画を観てからネットで原作の事をいろいろと
調べてみたが、たしかにストーリーも主人公も原節子のイメージからしてだいぶズレて
いるが、作品が言わんとするところの「大意」みたいなものは大きくは外れていないの
ではないか、とは感じた。
上原謙の冷たさがどこから来ているのか、などの背景は端折られているし、一番大きいのは
「山の音」という題名の由来が、映画からは全くわからない、という、不親切な点は
指摘されなければならないが。

黒澤や小津と並び、成瀬にも、コアなファンが沢山いらっしゃるので、トンチンカンな
ことは滅多に言えないが、川端文学の持つある種の「背徳的性的描写」は、しっかりと
受け止めることが出来た。すなわち、嫁・菊子(原節子)と、舅・信吾(山村)との
「危ない関係」の匂い、それは、原節子の目線の演技が一番強く訴えていた。さらに
山村自身、今の妻の姉を本当は好いていたのだが、妹の方と結婚することになったと
いう屈折した結婚事情から、その姉と面影が似ている菊子に恋慕の思いが本作のベースと
なっている。またダメ男と結婚し、嫁ぎ先から帰ってきてしまった娘の存在も、山村を
して原節子に心を傾けさせる要因の一つになっているようだ。

舅思いの嫁、嫁思いの舅、という太平楽のドラマではないのだ。男女の関係を「エロ」の
(というか下品になってしまう)一歩手前で、高度な恋愛観に昇華させて描いた成瀬の
力量に、私は惚れた。そのためこの映画の直後「めし」を見ることになるのだが、その
話は後日に。

菊子(原節子)の夫・修一を演じるのが上原謙である。実際の年齢は上原のほうが山村より
1つ上なのだが、ここでは上原は山村の息子である。これが不自然でないのが不思議だ。
夫・上原謙は、父親が専務をしている会社のサラリーマンであるのだが、結婚して2年と
いうのに、もう戦争未亡人の妾を持っている。それを父も母も知っている。何故嫁思いの
舅は息子を叱責しないのか、と観ている人は思うだろう。ここが原作にあって映画にない
息子修一の戦争を体験したことから来る心の傷というやつが横たわっているらしい。
原作はもっと「戦争」というものの影が落ちた構成になっているようだ。
修一は菊子が子ども子どもしていて女としての魅力に欠けると感じていて、(原節子は
凄い肉感的で大人っぽいと思うけどなあ。原作の菊子はほっそりの痩せ型)性のはけ口を
妾に求めているフシがある。

菊子は妊娠するのだが、修一へのあてつけから、周囲に知らせず堕胎してしまう。
このままではいけないと思う真吾(山村)は、自分らとは離れて暮らすことを提案するの
だが、菊子はお父様と離れては暮らせない、と切ないことを言ってくれる。
このあたりの影のある原節子の表情は、小津作品でもそうだが、一級品だなあ、とつくづく
思わせる。
原作では、真吾が能面を菊子に付けさせると、その面のしたから涙が筋となって流れて
くるところが非常に重要なメタファーとして描かれているのだそうだが、映画では能面を
付けるシーンはあるが、作品の内容のベクトルを示すほどの重要性を持っては扱われて
いない。映画のハイライトはやはりラストの新宿御苑での、真吾と菊子が語る未来への
展望だろう。vistaだっけ?

成瀬の画作りは、パースペクティブと、黄金律を活かした計算された画面。人物を重ねて
奥行きを出したり、(ナメとはちょっと違う)フレームインフレームアウトもリズムが良い。
小津のような特徴は無いが、計算された画面は落ち着いていて、作劇と作画がうまく
シンクロ出来ていると思う。「めし」は見たから「浮雲」とか他の作品も観てみたくなった。

作品にはまったく関係ないが、真吾が専務車で菊子を(堕胎するとは知らず)病院に送る
東京の当時の光景に四ッ谷の上智大学・イグナチオ教会が写っていたと思うのだが、違うかなあ。
成瀬監督、生まれは四ッ谷だし。
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<ストーリー:映画のストーリーとは少し違います>
六十二という齢のせいか、尾形信吾は夜半、よく目がさめる。鎌倉の谷の奥--満月の
しずかな夜など、海の音にも似た深い山の音を聴いて、彼はじぶんの死期を告げられた
ような寂しさをかんじた。
信吾は少年のころ、妻保子のわかく死んだ姉にあこがれて、成らなかった。息子修一
にむかえた嫁菊子に、かつての人の面影を見いだした彼が、やさしい舅だったのは
当然である。

修一は信吾が専務をつとめる会社の社員、結婚生活わずか数年というのに、もう他に
女をつくり、家をたびたび開けた。社の女事務員谷崎からそれと聴いて、信吾は
いっそう菊子への不憫さを加える。
ある日、修一の妹房子が夫といさかって二人の子供ともども家出してきた。信吾は
むかし修一を可愛がるように房子を可愛がらなかった。それが今、菊子へのなにくれと
ない心遣いを見て、房子はいよいよひがむ。子供たちまで暗くいじけていた。
ひがみが増して房子は、またとびだし、信州の実家に帰ってしまった。
修一をその迎えにやった留守に、信吾は谷崎に案内させ、修一の女絹子の家を訪ねる。

谷崎の口から絹子が戦争未亡人で、同じ境遇の池田という三十女と一緒に自活していること、
修一は酔うと「おれの女房は子供だ、だから親爺の気に入ってるんだ」などと放言し、
女たちに狼籍をはたらくこと、などをきき、激しい憤りをおぼえるが、それもやがて
寂しさみたいなものに変っていった。女の家は見ただけで素通りした。帰ってきた
房子の愚痴、修一の焦燥、家事に追われながらも夫の行跡をうすうすは感づいている
らしい菊子の苦しみ--尾形家には鬱陶しい、気まずい空気が充ちる。菊子は修一の
子を身ごもったが、夫に女のあるかぎり生みたくない気持のままに、ひそかに医師を
訪ねて流産した。大人しい彼女の必死の抗議なのである。と知った信吾は、
今は思いきって絹子の家をたずねるが、絹子はすでに修一と訣れたあとだった。
しかも彼女は修一の子を宿していた。めずらしく相当に酔って帰った信吾は、菊子が
実家にかえったことをきく。菊子のいない尾形家は、信吾には廃虚のように感じられた。
二、三日あと、会社への電話で新宿御苑に呼びだされた信吾は、修一と別れるという
彼女の決心をきいた。菊子はむろんのこと信吾も涙をかんじた。房子は婚家にもどる
らしい。信吾も老妻とともに信州に帰る決心をした。(Movie Walker)

この映画の詳細はhttp://movie.walkerplus.com/mv23724/こちらまで。


by jazzyoba0083 | 2017-04-26 22:50 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

誘拐報道

●「誘拐報道」
1982 日本 東映 134分
監督:伊藤俊也 原作:『誘拐報道』讀賣新聞大阪本社
出演:萩原健一、小柳ルミ子、岡本富士太、秋吉久美子、宅麻伸、三波伸介、藤谷美和子
   池波志乃、松尾嘉代、伊東四朗、大和田伸也、丹波哲郎、中尾彬、藤巻潤、平幹二朗他
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<評価:★★★★★★★☆☆☆>
<感想>

もう、今から35年も経つんだなあ。鬼籍に入られた俳優さんも多い。逆に宅麻伸なんか
若すぎて誰だか分からなかったし。最近の同様な映画、「64(ロクヨン)」とどうしても
比べてしまう。まだ邦画の作り方に「64(ロクヨン)」のようなシリアスなテイストが
持ち込まれる前の、どちらかというとテレビの2時間サスペンスのようなタッチの作りで
深みに欠ける恨みがあった。それは演出の、というより、誘拐に巻き込まれた加害者被害者、
警察、新聞記者と、大きく3つのジャンルのエピソードを全部ぶっこもうとしたことから
破綻が起きてしまったからというほうが正解だろう。

故にタイトルの「誘拐報道」に釣られ、ジャーナリストたちの苦悩の話か、と思うと
さにあらず、であるわけだ。主たる観点は、誘拐を企てる萩原健一と小柳ルミ子夫婦と
子供を拐われる医師岡本富士太と秋吉久美子夫婦の被害者加害者の心の苦痛でえある映画
じゃないか。原作は未読だが、新聞記者が「報道協定」というシバリの中で、何とか
真実を伝えたい、というジャーナルな映画にはなっていない。故に、警察側も新聞社側も
中途半端な描かれ方。丹波哲郎も三波伸介も平幹二朗も勿体無い。加えて加害者被害者の
描き方にも深みがないので、結局映画全体として中途半端になってしまった。

この映画のことだけいえば、主人公は萩原健一であり、自分の子供の友だち(医師の子)
を誘拐したものの、後のことをちゃんと考えていないので、どんどん破綻に追い込まれ
ていく様は、本当は心底悪いやつではないのだが、勢いで事件を起こしてしまい、
どうにもならなくなってしまった、というところだろう。(喫茶店経営に失敗し、誘拐に
使う自家用車が当時は珍しいAudi80 LEというところに彼の見栄っ張りさも見えているのに
これも勿体無いない。)
個人的に職業柄「誘拐による報道協定」の中に身を置いたものとして、身につまされる
ものはあったが、あんなに沢山の記者が出てきて右往左往するだけではストーリーには
ならない。唯一救いだったのは、萩原健一が逮捕され、パトカーに乗せられてくるところを
取材車で止めて、ガンクビ写真を撮る所かな。あと、宅麻伸が夜逃げする小柳ルミ子と
娘の写真をスクープしながら、彼らの心情を思いデスクに出さなかったところか。
上記のことから演技が良かったのは萩原健一、小柳ルミ子、そして幼い娘を心配しつくす
素人っぽい母親を熱演した秋吉久美子、といったところか。

結局、宅麻伸と藤谷美和子の恋愛も含め、あれも言いたいこれも言いたいでパンクして
しまった。だからずるずると時間だけが130分以上もかかってしまったのだ。中身の割に。
しかし、俳優もようけ出ていたなあ。今のようにスマホやカーナビ、などがあれば事件も
だいぶ変わっていように。(それを言い出すと、過去の警察小説は読めなくなっちゃうんだ
けれどね。例えば松本清張「砂の器」なんか、スマホがあれば、とは思っちゃだめですからね)
新聞の鉛活字を使った輪転機も今や珍しい。

最後になったが主題歌「風が息をしている」(作詞:谷川俊太郎 作曲:菊池俊輔)は
大変素晴らしい歌だ。
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<ストーリー:結末まで書かれています>
豊中市の私立学園一年生の三田村英之が、下校途中に誘拐された。県警本部の発表で、
犯人が英之少年の父で小児科医の三田村昇に三千万円の身代金を要求していることが
分かった。各新聞社に“報道協定”の要請があり、子供の生命がかかっているため、各社は
受けざるを得なかった。
三田村家には遠藤警部以下六名の警察官が入り込み、昇や妻の緋沙子と共に電話を待った。
武庫川の川原に緋沙子が一人で来るようにとの電話があった。川原には英之の学帽と
ランドセルが置かれてあった。

山岳地帯を貫いて、日本海側へ向かう高速自動車道。早朝の不甲峠を一台のアウディが
通過していく。数刻後、そのアウディからサングラスの男が降り、公衆電話ボックスに
向かった。ダイヤルをまわした先は三田村家。男は今日中に金をそろえるように指示して
受話器を置いた。
この知らせに大阪読売本社は色めきたった。「協定を結んだ以上、取材・報道は
自粛するが、協定解除に向けて取材の準備はおこたりなく!」檄をとばす吉本編集局長。

同じ頃、日本海を見下す断崖の上から、犯人が布団袋に入れた子供を投げすてようとするが、
密漁者たちがいるために失敗。その足で犯人=古屋数男は老母のいる実家へ寄る。
そこへ数男の妻・芳江から電話がかかってきた。芳江は喫茶店をだましとられた数男を
助けようと造花工場で働いているのだ。気が弱いくせに見栄っばりな数男は娘の香織を
私立学園に通わせていた。その香織と英之は同じクラスで仲良しだったのだ。

実家を出た数男は再び英之を殺そうとするが、袋の中から「オシッコ!」と訴える英之に
小用をさせているうちに殺意はしぼんでいった。途中で財布を落とし、持ち金も無くなった
数男は、三田村家に電話を入れ、取り引き場所として宝塚市内の喫茶店を指示。
捜査本部はあわただしく動き、記者たちも店を張り込んだ。危険を感じた数男は店に
近づかなかった。風邪気味だった英之が悪寒を訴えた。このままでは英之が死んでしまう。

焦る数男は、最後の指示を三田村家に伝えた。箕面市のレストランだ。三田村夫婦は警察に
張り込まぬように哀願し、レストランの前で待った。しかし、数男は路上に張り込んだ刑事
たちの姿を見つけた。万事休すだ。子供が死んでしまう。もう身代金は取れない……。
翌朝、路上に停車して呆然としている数男が逮捕された。トランクの中の英之は無事だった。
(Movie Walker)

この映画の詳細はhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=148248#1こちらまで。

by jazzyoba0083 | 2017-04-24 23:20 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

御用金

●「御用金」
1969 フジテレビジョン・東京映画(配給:東宝) 123分
監督・(共同)脚本:五社英雄
出演:仲代達矢、丹波哲郎、中村錦之助、浅丘ルリ子、司葉子、夏八木勲、東野英治郎、樋浦勉他
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<評価:★★★★★★☆☆☆☆>
<感想>
珍しく、2日続けて時代劇を観た。新旧の対比が出来て面白かった。好みだろうけど、個人的には
「殿、利息でござる!」の方が圧倒的に面白かった。本作は、フジテレビが初めて劇場映画に進出した
記念すべき一作で、当時フジテレビで「三匹の侍」などのテレビドラマを演出し、既に映画監督として
「牙狼之介」などを撮っていた五社英雄が脚本家・田坂啓と本を書き、演出した。

テレビドラマ「三匹の侍」で、日本刀の当たる音や、人が斬られる音などを入れて新たな地平を
開いた五社の作品で、映画では更に劇的に仕上がっている。短い心象光景のカットバックなど、今は
あまり使わないような手法も多用、「芸術」的な雰囲気を表出しようとした気分は、五社監督の若さ
(当時40歳)ゆえだろうか。私は、さいとうたかをの「劇画」を観ているような気分であった。

映画としては寒さは伝わってきたが(苦笑)、全体として凡庸な出来だと感じた。しかし、1969年当時
では、新しかったのだろうなとは推察出来るが。終盤の御用船をおびき寄せるシーンでは、大きな薪は
リアルで良かったが、夜の海を行く御用船の模型がチャチで残念だったのと、砂浜でも馬がパカパカいうのは
如何なものか、とも感じた。
今観ると、出演者の若さにばかり目が行ってしまった。浅丘ルリ子なんてまだ29歳!仲代も30代だ。
丹波哲郎は、一生懸命観ていた「キーハンター」の放映が本作の前年から始まったところ。
水戸黄門になる東野英治郎(当時62歳)、西村晃(当時46歳)が共に出演していたり。
ちなみに東野英治郎版黄門は本作が作られた年からスタートしている。そんなところばかりに関心が
行っていた。中村錦之助の役は本来、三船敏郎がキャスティングされたが、寒い中でのロケを嫌がった
のと、仲代との間が非常に悪くなり、錦之助に交代したといういわくがある。

閑話休題、本作の出来に戻ろう。ストーリーは単純だし、ラストも想像出来てしまう。活劇として
単純に楽しめば良いのだろうけど、あまりにコテコテな時代劇で、ストーリーの綾、みたいな楽しみは
ない。これは脚本の問題だ。昭和40年代の時代の雰囲気と役者の若さを感じながら観ると楽しいかも。
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<ストーリー>
天保二年の冬、越前鯖江藩領内で奇怪な事件が起った。黒崎村の漁民が一人残らず姿を消してしまったのだ。
領民たちは、この事件を“神隠し”と呼んで怖れた。
三年後の江戸。浪人脇坂孫兵衛が、鯖江藩士の流一学らに急襲された。孫兵衛は、彼らが、
次席家老六郷帯刀によって差向けられたことを知り愕然とした。

その頃鯖江藩は、公儀より一万石を削減され、さらに享保以来の不況で、極度に疲弊していた。
帯刀は、佐渡から産出した御用金を積んだ船が黒崎村沖で遭難した時、漁民たちが拾いあげた金を
藩財政建てなおしのために横領し、その秘密を知る漁民をみな殺しにしていたのだった。
帯刀の妹しのの夫である孫兵街が、妻と藩を捨てて出奔したのは、それから間もなくのことだった。
帯刀は、その時竹馬の友孫兵衛に二度と“神隠し”を行なわぬと約束させられた。
だが、藩政改革に自分の政治的生命を賭ける帯刀は、再度の計画を練っていた。
孫兵衛は、帯刀への怒りをこめて鯖江に向ったが、その途中女賭博師おりはと知合った。

おりはも“神隠し”の犠牲者だった。年季奉行が明けて村へ帰った時、許婚者も父親もなく、
身を落した女だった。旅を続ける孫兵衛は、やがて、浪人藤巻左門と会った。その時、
左門は孫兵衛につかず離れずの旅をしていた。一方、藩では、孫兵衛の行動を察知し、
剣の木峠で彼を急襲させた。そして、死闘で傷ついた孫兵衛を救ったのは左門だった。
やがて、帯刀に、金を積んだ御用船が佐渡を出帆したという報告が入った。
そして、鮫ヶ淵村が“神隠し”の舞台に選ばれた。帯刀の片腕九内らに狩り出された
鮫ヶ淵村の漁民たちは、御用船を湾の暗礁地帯に誘導すべく、偽りの篝り火台を新設
していた。帯刀の野望と領民の悲劇を阻止するために孫兵衛が立ちあがり御用船難波の
真相究明に幕府が送った公儀隠密の左門もまた孫兵衛とともに鯖江藩の剣客と対峙した。
雪をついて二人の剣が次々と相手を倒し、やがて帯刀を倒し、“神隠し”の悲劇を未然に防いだ。

この映画の詳細はhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=142846こちらまで。



by jazzyoba0083 | 2017-02-23 22:50 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

●「ホノカアボーイ Honokaa Boy」
2007 フジテレビジョン、電通、ROBOT 配給:東宝 111分
監督:真田敦  原作:吉田玲夫
出演:岡田将生、倍賞千恵子、長谷川潤、喜味こいし、正司照枝、蒼井優、深津絵里、松坂慶子、吉田玲夫他
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<評価:★★★★★★☆☆☆☆>
<感想>

ハワイ好きならばとりあえず観ておかなくてはならないな、と思いながらずっと機会を逸していて、
年末年始になるとハワイ特集が多くなるし、ハワイ島が取り上げられることも多くなるだろうし、
すると、ホノカアはこの所マストアイテムになっているので、急ぎレンタルビデオで鑑賞した。

感想を語る方の中には、ハワイでなくても・・・という意見も散見されるが、ハワイの空気感、風と
いったものを感じた人とそうでない人では感じ方が違うんだろうなあ、と思った。どちらが悪いとか
言う話ではない。原作は吉田カバンで有名な吉田玲夫(レオ)が実際にハワイに滞在した事をまとめた本。
これをCM演出畑の真田監督が、いかにもCM的なタッチで(いい感じという意味で)仕上げた作品。

物語は、これはもう夢のようなお話。フェアリーテイルとでもいえるような。確かに舞台は何処でも
起こりうるだろうが、ムーンボウ(夜に出る虹)をキーワードとして、人と人の繋がりが薄いようで濃く、
自然との繋がりがとても濃いというハワイ独特のスピリチュアルな雰囲気を持った作品といえる。
時間が止まったようなホノカアという街(近くに神聖な王族たちにまつわるスピリチュアルな
ワイピオ渓谷がある)でなくてはならなかったのだろう。

スローなテンポで、主人公レオと不思議な料理の上手いビーおばさん、ロコガールのマライア、の
話が繋がっていく。映像も幅広い画角を意識したルーズなモノが目立ち、時間の経過や物語の
進展を映像からも主張できているのではないか。そのあたりはCM監督の手腕が生きた。

映画館女経営者、松坂慶子、や喜味こいし、正司照枝ら年配の配役も、あるいは映画館に勤める
爺さんらも、ホノカアに流れる時間や、何もないそこに暮らしている人生、そして観ている私達の
人生を投影させて面白い。物質的に恵まれた生活が幸福なのか、ということに思いを致しても
間違いではない。
人、街、太陽、風、色、草、フラ、音、ホノカアにあるこうした全ての舞台が、レオの人生に
関わって不思議な時間が流れる。だからどうした、というあまり人生訓的な意味は無いでもいいと
思う。ストーリーはあるようでないようで、で良いと思う。観て癒やされれば。映画から吹き出る
スピリチュアルな空気に癒やされれば。
キャステイングも全体に悪くないと思う。

ハワイには何度となく行っているが、ハワイ島は未踏で、是非行きたいと思っている。ホノカア、
必ず訪れるだろう。
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<ストーリー>
ハワイ島の北にある町、ホノカア。世間から忘れられたこの町では、月に虹がかかるとき、願いが
叶うと言われていた。大学生のレオ(岡田将生)は失恋のショックから、逃げるように日本を離れて
この町を訪れる。
そして、ひょんなことから映画館の映写技師として働くことに。彼が初めてこの町にやってきたのは
半年前。見た者に最高の祝福をくれると言われる伝説の“月の虹=ムーンボー”を探して、恋人と一緒に
ハワイ島へ。
だが、“ムーンボー”には出会えず、道に迷って辿り着いた町がホノカアだった。

不思議な魅力に吸い寄せられるように再びやってきたこの町でレオが出会ったのは、風変わりだけど
心優しい人たち。食いしん坊な映画館の女主人エデリ(松坂慶子)。87歳にしてエロ本を欲しがる
日系老人のコイチ(喜味こいし)。いつも変な髪形に仕上げてくれるバーバーのみずえ(正司照枝)。
オーガニックフード店の美しい看板娘マライア(長谷川潤)には、ちょっとした恋心を抱く。そして、
毎晩レオにご飯を作ってくれる、いたずらと料理が大好きな日系のおばあちゃんビー(倍賞千恵子)。
出会い、恋、ごはん、そして別れ。レオが大人になるために必要なものすべてが、ホノカアにはあった。

この映画の詳細はhttp://movie.walkerplus.com/mv37839/こちらまで。


by jazzyoba0083 | 2016-12-21 22:30 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

上意討ち 拝領妻始末

●「上意討ち 拝領妻始末」
1967 日本 東宝・三船プロダクション 128分
監督:小林正樹 脚本:橋本忍 音楽:武満徹
出演:三船敏郎、仲代達矢、加藤剛、司葉子、神山繁、松村達雄、山形勲、三島雅夫、市原悦子、大塚道子他
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<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>

傑作「切腹」から4年。製作会社を松竹から東宝に変え、さらに三船プロが加わった座組となり、
「切腹」がもつ独特の緊張感と武家社会のおぞましさに比すと、いささか「情感」とかエンタメ方向に
振った感じを受けた。
原作となった滝口康彦の物語性は、あいかわらず尋常ではないに冒頭から引き込まれていく。さらに
橋本忍の脚本が相変わらず見事。カメラがやや「切腹」に比べると弱いが、神山繁のやりすぎ感もある
目の周りのメイク、照明、そして大道具小道具の美術も総じて完成度は高い。

会津藩の話なのだが、結果、悪行を極めた殿様になんの御咎めがないのが、観終わって釈然としないところだ。
三船の情が篭ったラストのセリフも、言っていることは正しいが、そこまで観てきた人が感じたいカタルシスの
レベルを示せていない。後半、隠居となった三船が、息子もその嫁も亡くしてしまい、残された孫を抱えて
「情」の表現部分が多くなるのだが、個人的には、もっとハードボイルドであっても良かったと感じた。

城下の剣術使いとして三船と並び称される仲代の役どころも、いささか中途半端。殿様の悪行を江戸表に
伝え、大目付から、殿様に対し、蟄居、所領替えなどの罰が降りるとすっきりしたんだが。
「切腹」のラストもそうだったが、結局は火縄銃でやられるのであるが、ならば追手は最初から鉄砲を使え、
と突っ込みたくなる。そのあたりの緊迫感の薄い剣戟も、後半の三船のクサいセリフと並び、残念な部分であった。
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殿様が、正式の世継ぎになにかあった場合、家を継ぐものがいなけれがお家断絶という時代、それを避けるため、
所謂スタンバイ要員としての世継ぎを産ませるため、お市という妾を、奥に入れた。お市は男児を産むが、
しかし殿の寵愛はすぐに若い妾に移り、市は気に入らないと手放された。
そして馬廻り300石の井原伊三郎が倅、与五郎に下しおかれると側用人からの伝言。その妾も実は婚約者が
いたのを引き剥がされたのだ。殿といっても50歳過ぎの爺である。聞けばお市はすこぶる性格が悪いという。

与五郎は一旦は断るが、藩主の命である、とのことで、お市(司葉子)を嫁に取ることにする。
お市は性格が悪いのではなく、正義の人で気が強いだけ、よく出来た嫁であった。2人には女の子が誕生、
与五郎は市を深く愛し、義父の伊三郎も大変気に入っていた。幸せな生活であった。

だが、江戸表のお世継ぎが急逝するという事態になる。お市が産んだ男の子が俄然世継ぎとなり、井原家に
お市を、お世継ぎ様のご母堂となるのだから大奥に戻せ、と命が下る。
ここに及んで、伊三郎、与五郎親子は、まるで人形のように女性をやり取りする殿様の所業に激怒。
絶対にお市を大奥には戻さない、と言い張る。しかし上役や親戚らは、井原家が取り潰され、2人は切腹と
なるぞ、と脅される。市も大奥には絶対に戻らない、と心に決めていた。しかし、与五郎の弟文蔵に
騙され、お市は大奥に拉致されてしまう。

事態がここまで至ったので、井原親子は腹を決め、井原家断絶も構わないからと家を砦として、籠城し、
一戦構え、上役共に一泡吹かせ、またこの凶状を江戸の大目付に訴えようと決めた。
藩の上役の中でも腹黒い側用人高橋外記(神山繁)は、井原家にお市の方を伴って現れ、お市自身が
井原と縁を切り、大奥に戻るといえば、井原一族の咎めは軽くなるであろう、一方、あくまでも井原の
嫁だ、と言い募るのなら、この場で2人は斬り殺さなくてはならない、と迫る。市の返事は否であった。
市も与五郎を深く愛していたのだ。彼女は幼い娘を残し、そばにいた用人の槍を自分に突き立てて果てた。
もう自分を理由に井原家を争いに巻き込みたくないと、覚悟を決めたのだった。そばに駆けつけた
与五郎も、藩の追手の手にかかり絶命。鬼とかした父伊三郎は、居並ぶ追手を全滅させ、高橋外記も
屠った。
そして娘を脇に江戸表にこの非道を訴えに出かけようとしたが、藩の境界で、待っていたのは
剣術の仲間で剣豪の浅野帯刀(仲代)であった。役目として木戸を通すわけには参らぬ、と主張。
浅野と井原の一騎打ちが始まる。浅野は負ける気でいたように思える。激しく斬り結んだ結果、井原が勝ち、
笹の原に置いた幼い娘のところに駆けつけようとしたところ、追手の鉄砲が火を噴く。それでも多くを斬殺し、
必死の応戦をしたがなにせ多勢に無勢。
ついに伊三郎は絶命する。娘に対し「母のようなおなごになれよ、そして父のような婿を見つけろよ」と
声を掛けたのが最後の言葉だった。
娘はかけつけた、乳母(市原悦子)に抱かれて眠るのだった。
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さて、本作をどう捉えるべきか。お家大事、家門大事、武士の名誉大事、という幕藩体制の中で、個人や家族という
単位は、そうした体制の元では、押し殺されていく、という理不尽。片やそれを守り保身を図る(藩の存続を
考えば役目柄やむを得ないというのは「切腹」と同じだ。
 権力の前に、基本的人権などありえない世の中では、権力者の言うことは絶対。嫁を寄越せといえば差し出し、
切腹せよ、と言われればどんな理不尽であっても腹を切らなくてはならないという、武士道の持つ(今から見れば
歪んだ)体制、非道、理不尽と、それに翻弄される特に女性の悲劇に焦点を当てたもの、というべきだのだろうか。

これまで全く観たことが無かった小林正樹作品。「切腹」「上意討ち」の二本は、黒澤、小津に並ぶ私の中の
ベスト映画となった。

この映画の詳細はhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=142086#1こちらまで。

by jazzyoba0083 | 2016-12-05 23:10 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

切腹

●「切腹」
1962 松竹映画 108分 
監督:小林正樹 脚本:橋本忍 原作:滝口康彦『浪人異聞記』撮影:宮島義勇 音楽:武満徹
出演:仲代達矢、三國連太郎、丹波哲郎、石浜朗、岩下志麻、稲葉義男、三島雅夫、中谷一郎、佐藤慶他
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<★★★★★★★★★☆>
<感想>

すごい映画を観た。小林正樹監督の作品はこれまでさして興味もなく未見だったのだが、先月WOWOWで
何本か放映する機会があり、内容お面白そうだったので、録画して鑑賞に及んだ。
人生の中でインパクトある映画に遭遇する機会は何回かあるけど、本作はまさにそれだ、と思った。

もう、出足からグイグイとストーリーに引き込まれる。宮島のキャメラも、多彩なが画角と奥行きを深くとり
陰影を強調しつつ全面の人物に語らせる、など映像表現上においても優れた作品といえ、かつ武満徹の音楽が、
ある種陰鬱な映画にフィットして見事である。更に、仲代、三國、丹波、といった日本を代表する名優たちの
鬼気迫る演技も素晴らしいとしか言いようがない。
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まず驚いたのが、ストーリーの骨格をなす、「名家の庭先での切腹の申し出」ということ。こんなことがホントに
あったのだろうか、とその「新鮮さ」にまず驚いた。これは関ヶ原から間もない1600年代中盤、浪人が沢山
生まれてしまい、仕官もままならず、家族を抱えて食い詰めていた。
そこで出てきたアイデアが、名家を訪ね、「拙者は元〇〇家家臣、〇〇と申すもの。主家廃絶の折から、生活は
困窮、仕官もままならず、これから生き恥を晒すより、武士として腹かっさばいて本分を尽くしたい。
当家に置かれては是非、庭先をお借りしたい」と語りる。当然訪ねられた家は大迷惑。かつては仕官がかなった
人物もいたため、浪人たちの間で「切腹を語った小銭稼ぎ」が横行していたが、訪ねられた家は、そこそこの
金子を与えて引き取って貰っていたのだった。

近江の赤備えで武勇名高い、「井伊家」。この江戸屋敷に、千々岩求女(石浜朗)が、同様の言上を語り
やってきた。この手の武士の風上にも置けない廃れ浪人に対し、井伊家家老斎藤勘解由(三國)は、一旦は
「なかなか見上げた心持ち、主君にお目通りを」と騙し、「そこもとの切腹の意思は固いと見える。ならば
見事本懐を遂げさせて差し上げよう」と、切腹実行へと事を運ぶのだった。
千々岩としては、全然そのつもりもなく、金子の少しでも貰って帰ろうとしていたところ、何と、ほんとに
切腹の儀式が始まってしまったのだ。武士に二言は有りえず、進退窮まった彼は数日猶予を頂きたい
(家に帰って病身の母子に別れを告げたかったのだろう)、必ず帰ってくるから、というも、家老らは
聞き入れない。「さ、見事切腹を」と、中庭の白洲に準備一切を整えた。しかし、千々岩が切腹に使う脇差しは、
中身をカネに変えたため、竹光だった。
家老らは、千々岩に竹光で切腹せよと言い募る。覚悟を決めた千々岩は、竹光で腹を切ってみるものの切れる
ものではなく、遂には腹に竹光を突き立て、悶絶した。介錯人は沢瀉彦九郎(丹波)。こいつも意地悪いやつで
千々岩に「介錯を!」と懇願されても、「いや、十分に切られめされよ」と言って苦しめる。千々岩の
体力も尽き果てる際に、沢瀉はやっと介錯しクビを落としたのだった。

そんなことがあった後、また井伊家に、今度は芸州福島家元家臣津雲半四郎(仲代)と称する浪人が
現れた。井伊家では、彼を招じ入れ、再び見せしめに切腹させるつもりで準備した。津雲自身も、
「拙者、僅かな金子を所望に来たのではない。切腹するつもりでやってきたのだ」と正々堂々としている。
そこで井伊家では千々岩のときと同じように中庭に場を設け、切腹の段取りを勧めた。
そこで津雲は、介錯人に沢瀉彦九郎を指名する。だが、かれは今日は出仕していない。しばらくは出仕できない
という。それでは、と指名したふたりとも、病気を理由に出資していなかった。使用人が沢瀉の家に出仕を命じに
出かける間、津雲は、家老に是非お聞き頂きたいことがある。死に行くものの話として聞いてくれと、
自分の出自を話し始めた。

それによると、津雲は、先日井伊家で壮絶な詰め腹を切らされた千々岩求女の義父であった。津雲は娘美保(岩下)を
困窮する千々岩の気持ちを押し切って2人を夫婦とした。しかし、生まれた子供は病気勝ちで、美保はどうやら
労咳にかかっているらしい。そうした中で、千々岩は井伊家に何がしかの金子を「押し売り切腹」を仕掛け
せびるつもりで出かけたのだが、なんとホントに切腹する羽目となり、家族にも会えず憤死してたのだった。

それを受けた義父津雲半四郎は、井伊家のあまりのやりように、半ば復讐として、半ば武士の沽券の問題として
命を賭してやってきたのだった。事の顛末に驚く井伊家の面々。さらに、津雲は沢瀉ら、千々岩に残酷な所業を
した3人の馬廻り役を懲らしめ、命を奪われると同じ、という曲げを切り取り、白洲の上で懐から3つの切り取った
曲げ老中に放り出してみせたのだった。

「狼藉者が!切って捨てよ」という老中の掛け声で屋敷中の家臣が出てきて、剣戟の一幕となった。存分に
斬り結んだ津雲は、井伊家の象徴である赤備えの甲冑を抱えて畳に叩きつけたところに、火縄銃で射殺されたの
だった。老中斎藤勘解由は、家臣に、「津雲は見事本懐を遂げた。殺された家臣や沢瀉らはあくまで病死である。
怪我をしたものは篤く手当せよ」と命ずる。つまり、津雲の騒動は無かったことにしたのだ。武家の対面として。
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さて、本作から何を受け止めるべきだろうか。タイトルは「切腹」。この言葉に、武家社会のテーゼとアンチテーゼが
内包されている、と思う。「建前・体面」と「本音・実質」、さらに突き詰めると、「武士・武家はどうあるべきか」と
いう命題へと収斂されよう。

大阪夏の陣から16年、武士としての心構え、心情、武士の情けに象徴される人間味、そした戦場の実践から生まれた
武家の作法というものが、平和な世界になり次第に形骸化、様式化され、武家も刀を抜かなくって長い年月が経過する。
時代は次第に文化が花咲く時代へと変質していくのだ。

こうした時代の移ろいのなか「武家の本分」といったものが、曲がっていってしまった時代に、津雲半四郎は、
敢然と立ち向かい、武士とはそういうもんじゃないだろう、と訴えた。

一方、お家大事、主家大事となれば何万という家臣が露頭に迷うことにつながる不名誉は老中としては絶対に
避けなければならない。だから、ラストで老中が全てを無かったこととして葬り去ろうとしたことは、これはこれで
この時代、誰が非難出来たであろうか。

本作を「社会派」と称し、現代でのメタファーを求める方もいらっさるだろう。
それはそれで否定はしないが、小林正樹がここで描きたかったのは「切腹」という象徴的な事象を通し、江戸時代初期の
「武士道の有りよう」を独特の人間性と物語性をもってして提示したのではないか、私はそう思った。
しかし、生死感、人間の残酷性などなどいろんな意味合いが受け取れる、よく出来た映画である。
ただ、多くの方が指摘されているように、最後のチャンバラは、もう少しなんとかならなかったかな。物語性の濃さを
減じる効果しかない。

この映画の詳細はhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=140556#1こちらまで。

by jazzyoba0083 | 2016-12-03 23:10 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

お早よう

●「お早よう」
1959 日本 松竹映画 94分
監督・(共同)脚本:小津安二郎
出演:佐田啓二、久我美子、笠智衆、三宅邦子、杉村春子、設楽幸嗣、島津雅彦、沢村貞子、東野英治郎
   長岡輝子、三好栄子、大泉滉、泉京子、高橋とよ他
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<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>

「彼岸花」「秋日和」の姉妹編。タイトルの演出なども含めて、小津監督のなかでは1958、59、60、の
三連作という括りなのだろう。内容は親子の人情ではなく、いわば群像劇ではあるが本作では家にテレビが
欲しい兄弟が狂言回しとして登場、おでこを弾くと「ぴよ~ん」と音が出たり、おならだったり(うんちが
もれちゃう)、コメディ色が強い。林家の弟を演じた島津雅彦は、黒澤映画「天国と地獄」で、三船敏郎の
家の運転手の息子を演じていたんだな。なかなか達者である。「アイ・ラブ・ユー」という掛け声が良い!
私の昭和34年が丁度このくらいの子供だった!

 小津監督が赤の発色が良いからと使ったドイツのアグファフィルムが本作でも使われ、画面の中で、朱色の
存在をさりげなく主張する。それは味の素やキッコーマンの容器の頭部分であったり、住宅の壁に掛けられた
フラフープだったり、兄弟の着るセーターに入ったラインであり、住宅の廊下の消化器や、脚立の天板であり、と
基本的にはどのフレームにも朱色や赤が置かれ、動かない画面の重心を取っているとともに、アクセントにも
なっている。また小津映画の特徴である短いセリフのオウム返しはここでも子役まで含めて健在である。
「いい天気ですねえ」「ほんといい天気」「ほんとにいい天気です」。という具合。タイトルの「おはよう」は
もちろん挨拶であるが、ここでは大人による無駄な言葉の代表選手として登場している。林家の兄弟は
お父さんから「無駄口をたたくな」と叱られ、だんまり作戦に出るが、彼らは大人こそ挨拶など無駄なことを
いってるという。だが佐田啓二は「挨拶が無くては味気ない。そういう言葉は生活の円滑剤だ」と喝破する。
本作の主題がそこにある。

「文化住宅」「14インチの白黒テレビ」「フラフープ」「普段は着物姿の主婦」「55歳定年」「押し売り」
「月賦」などなど昭和半ばの文化史を保存する上でも立派な史料となりうるものとなっている。
 林家の兄弟は中学と小学生なのだが、そのわりには笠智衆がおじいさんのようだと思うのだが、笠智衆、この
映画の時、まさに55歳。昔の人は年取っていたなあ。そしてもう定年なんだな。

引き戸を開ければ同じ間取りの文化住宅というとある街角。奥様同士は近所の噂話に余念がない。子どもたちは
勉強も上の空で、ある家にあるテレビの相撲中継が気になって仕方がない。そのうちの林家の兄弟は家に
テレビがない、「買っておくれよ~」とせがむが、両親はうんと言わない。まだ贅沢品なのだ。
そんな住宅街の人々が織りなす人生模様を「あいさつ」ということをキーワードに纏める。
 河原の土手の道を子供らが「有楽町で逢いましょう」を歌いながら下校してくるところから映画が始まる。
小津映画の特徴である、市井の人々が繰り広げる普通の人生の中に、豊かな人間模様を浮かび上がらせると
いうタッチが本作でも展開される。「家族」というテーマも重要である。男女の仲は「惻隠の情」である。
こうした作品は激しい感情を突き動かすものではないが、悪人が出てこない、ほのぼのとした世界で感じる
情感の豊かさ、を私たちは受け取ることが出来る。これは平成ではなく、やはり昭和の半ばならではのテイストで
あろう。小津作品のいいところが出た佳作である。
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<ストーリー>
東京の郊外--小住宅の並んでいる一角。組長の原田家は、辰造、きく江の夫婦に中学一年の子・幸造、それに
お婆ちゃんのみつ江の四人暮し。原田家の左隣がガス会社に勤務の大久保善之助の家。妻のしげ、中学一年の善一の三人。
大久保家の向い林啓太郎の家は妻の民子と、これも中学一年の実、次男の勇、それに民子の妹有田節子の五人暮し。
林家の左隣・老サラリーマンの富沢汎は妻とよ子と二人暮し。右隣は界隈で唯一軒テレビをもっている丸山家で、
明・みどりの若い夫婦は万事派手好みで近所のヒンシュクを買っている。

そして、この小住宅地から少し離れた所に、子供たちが英語を習いに行っている福井平一郎が、その姉で自動車の
セールスをしている加代子と住んでいる。林家の民子と加代子は女学校時代の同窓で、自然、平一郎と節子も好意を感じ
合っている。
このごろ、ここの子どもたちの間では、オデコを指で押すとオナラをするという妙な遊びがはやっているが、大人たちの
間も、向う三軒両隣、ざっとこんな調子で、日頃ちいさな紛争はあるが和かにやっている。ところで、ここに奥さん
連中が頭を痛める問題が起った。相撲が始まると子供たちが近所のヒンシュクの的・丸山家のテレビにかじりついて
勉強をしないのである。民子が子どもの実と勇を叱ると、子供たちは、そんならテレビを買ってくれと云う。
啓太郎が、子供の癖に余計なことを言うな、と怒鳴ると子供たちは黙るどころか、「大人だってコンチワ、オハヨウ、
イイオテンキデスネ、余計なこと言ってるじゃないか」と反撃に出て正面衝突。ここに子供たちの沈黙戦術が始まった。

子供たちは学校で先生に質問されても口を結んで答えないという徹底ぶり。この子供たちのことを邪推して近所の
大人たちもまた揉める。オヤツをくれと言えなくて腹を空かした実と勇は原っぱにおヒツを持出して御飯を食べようと
したが巡査に見つかって逃げ出し行方不明となった。間もなく子供たちは駅前でテレビを見ているところを、節子の
報せで探しに出た平一郎に見つかった。家へ戻った子供たちは、そこにテレビがおいてあるのを見て躍り上った。
定年退職した富沢が電機器具の外交員になった仕事始めに月賦でいいからと持込んだものだった--。」(Movie Walker)

この映画の詳細はhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=138821こちらまで。

by jazzyoba0083 | 2016-09-23 22:40 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)

続・社長外遊記

●「続・社長外遊記」 
1963 日本 東宝映画  96分
監督:松林宗恵
出演:森繁久彌、小林桂樹、フランキー堺、加東大介、三木のり平、新珠三千代、草笛光子他
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<評価:★★★★★☆☆☆☆☆>
<感想>
この手の映画がこのブログに載ることはほとんどないのであり、事実、この東宝の社長
シリーズをまともに見たのも初めてである。当時は若大将シリーズと並んで東宝のドル箱
シリーズだったのだな。我が家のブルーレイレコーダはキーワード録画が出来、個人的に
好きな「ハワイ」を入れてあるので、解説にハワイがという単語が入っていると、この手の
映画やら、「トラ!トラ!トラ!」「ファイナルカウントダウン」などのハワイが舞台になった
映画が新旧録画されるわけ。で、先日録画された作品を観てみたら、本作がBSフジで
放送されていたものが釣れていたのだった。前編にあたり「社長外遊記」も。

ただし、ハワイ度は続編のほうが強く、今から半世紀ほど前のホノルルは一体どうなって
いたのだろうか、というその一点で観てみた。そしたら結構映画にも引き込まれたという
塩梅だ。昔の人たちは、この映画の森繁やのり平の演技で笑っていたのだろうか。
思えば幸せな時代だった。

さて50年前のホノルル(ヘリに乗るシーンもあるので空撮!がある)は、ピンクパレスと
モアナサーフライダー、シェラトンハワイアンビレッジ以外に高いビルは目立たず、
今は一方通行のカラカウアやアラワイは当時は対面通行。
どこかは分からないがショッピングセンター(というより商店街)も今からでは想像出来ないほど
鄙びている。空いた土地もあちこちにあり、今日のビルたちすぎのホノルル・ワイキキより
のどかでよろしい。まあ、今のほうが便利っちゃあ便利だけど。

映画のほうだけど、森繁あたりは相当アドリブをかましている風。娯楽はまだテレビよりは
映画の時代、年に4本も作られていた本作などは、今で言えばテレビドラマのように消費されて
いたのだったのだろう。
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<ストーリー>
丸急デパートのハワイ進出を計って風間社長、大島常務、珍田部長の首脳部は中村
秘書課長が待つハワイへ向った。現地に着いた一行は早速関係者を集めて日本料理屋
“さくら亭”でパーティを開き、珍芸を披露して一世、二世達の喝采を博した。

その夜以来風間はさくら亭のマダム紀代子にぞっこん参ってしまい、昼はハワイ名所で
デイト、夜はさくら亭に入りびたりでご奉公という始末。肝心の敷地買収は日系三世の
ジョージ・沖津にまかせっきりという無責任さ。

一方珍田は中村をガイドにしてもっぱら穴場めぐり、フラダンス大会に女装で出場しては
見事一位になって国威発揚した。ミス・ハワイ丸急コンテストにはジョージの経営する
雑貨店の看板娘キャサリンが文句なく選ばれた。
一人ホテルに残された大島は洗濯に大忙し、ある日、風に飛ばされたふんどしを拾って
くれた松本老人と親しくなり、それからは碁盤を挟んで対局の毎日となった。

買収をまかせたジョージはキャサリンを口説くのに懸命で、たまりかねた圭之助がやっと
交渉をはじめたが時すでに遅く、目指す土地は他人に売約済み。あわてて地主の所へ
乗り込んでみると、地主というのは松本老人だった。かねてからの親交で大島が聞き
出したところ、新しい持主は意外にも紀代子と判った。早速紀代子のもとへかけつけたが、
一足違いで東京へ発ったあとだった。しかもハワイに来ていたライバル福助屋の
水谷社長と一緒に出かけたという。大あわての一行はすぐに日本へ帰ることになった。
東京での仕事と恋の成果はいかに。(Movie Walker)

この映画の詳細はこちらまで。
by jazzyoba0083 | 2016-06-18 11:00 | 邦画・旧作 | Trackback | Comments(0)