暴力脱獄 Cool Hand Luke

●「暴力脱獄 Cool Hand Luke」
1967 アメリカ Warner Bros. 128min.
監督:スチュワート・ローゼンバーグ  原作:ドン・ピアース
出演:ポール・ニューマン、ジョージ・ケネディ、ルー・アントニオ、ストローザー・マーティン他
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<評価:★★★★★★★★☆☆>
<評価>

ポール・ニューマンの諸作の中でも傑作の呼び声が高い本作。既に様々なシーンで物語られて
いるので、いまさらな感じもあろが、思うところを綴りたい。

1960年代後半から70年代にかけてムーブメントとなった「アメリカン・ニューシネマ」の一つと
数える向きもある。確かに体制への反抗とか、自由の希求、そしてアンハッピーエンディングと
要素は確かに揃っているが、「俺たちに明日はない」や「イージー・ライダー」、「卒業」などなどに
比べると、どこか若干ニュアンスが違うような気もする。が、大きなくくりでいえば、アンチヒーロー
ものとして、それらのジャンルに属するものと捉えてよかろう。
「イージー・ライダー」を大学1年の入学式あたりに観たまさに同世代人であっても、アメリカに
住んでいなければ分からない映画が作られた背景を読み解くのはなかなか難しいことである。

原作の(脚本も手がけている)ドン・ピアースが自らの刑務所経験を舞台として借りてきて、ルーク
(ポール・ニューマン)という男を通して言いたいことはなんで有ったろう。またローゼンバーグ監督が
映像を通し表現している様々な暗喩は何を主張したいのだろう、といろんなことが読み取れる作品で
ある。
ルークの反体制的な姿勢、自分の人生を自分の行き方で歩むという姿勢、でも神の存在を何処かで意識して
いる姿勢、そして自由への飽くなき希求、と、ざっと観てもそのくらいは感じ取れる。
そして基本的にいつも笑顔のルークが、母と会った時、母の死の報に接した折に歌を歌う時、三度目の
脱走に失敗し刑務所の看守らに徹底的にいびられる時、そして最後に教会で追い詰められた時に
見せる顔は、誠に人間らしく、苦悩や悲しみに満ちていて、クールどころか、人間臭い。その人物に
観ている人は強く惹かれるのだ。そういう点ではポール・ニューマンとジョージ・ケネディの存在が
極めて大きい。中でも牢名主的存在のケネディが日本人にとっては浪花節的にあるいは任侠的に、
対立するルークを次第に認め大好きになっていき、最後まで行動を共にする様が魅力的に映るのではないか。

刑務所という世間、受刑者仲間という世間の人々、刑務所長や看守という体制、そこから自由を求めて
脱獄する自分という置き換えが容易であり、他人事としてもまた自分の事として観てもシンパシーを感じ
つつ観ることが出来るので、本作は時代を超えて皆に愛されるのであろう。

特にこだわって表現されているのが「神」との関わりであろう。ルーク自身映画の中で、神に対して
こんなに信じているのに、どうしてこのような仕打ちを・・、というふうなセリフを吐いたり、
ラストでは自ら教会へ入り、神に対して「どこにいる?」と叫んでみたり、おそらくは当時のアメリカに
おける、大衆の、神とのあるいは教会との関わりに対する疑問を提示しているのではないか。神の存在を
肯定しつつも疑問視せざるを得ない世相を反映しているようである。ラストカット、再び捉えられ
道路の草刈りをしているケネディら囚人からのズームバックは、十字に交わる道路を写し、それが両脇に
女を抱えたルークの写真と重なり、更に彼の目のズームアップで終わる、というシーンに繋がるが
十字に交わった道路は十字架そのもの、とも見られ、それに重なるルークの存在は、死こそ真の自由と
表現していると捉えることも出来なくはない。聞く耳を持たない体制の象徴たる看守のサングラスが
最後にはクルマで踏まれて割れる、というカットには大いに意味があると思うのだ。

<追補:本作はアメリカ映画唯一の「実存主義映画」とも云われるそうだ。で、「実存主義」とは何か、を
調べると、「Yahoo!知恵袋」の「実存主義を分かりやすく解説してください」という質問に、easy_all_easy
さんの下記が分かりやすく、なるほど、本作のバックボーンと重なるな、と理解出来る。以下引用。

「生まれたままの、欲望に駆られて生きる人間→『現存在』(現にあるがままの姿)
自己にめざめ、自己実現する人→『実存』(あるべき人、真に存在すべき人の姿)

現存在は、事物だけの世界の内に存在し、他人を、道具として扱って、欲望に駆られ、
「いつか自分が死ぬ」ことから目をそらし、ごまかして生きる。
現存在の時間は、過去→現在→未来、と流れ、時間に流されて、今・今の欲望を満たすために、
現存在は生きる。

そんな空虚さを、実存は知って「いつか自分は死ぬ」と自覚し、ならば『有限な人生で、何をなすか?』と
生きる意味に覚醒する。
実存の、時間性。それは、到来(未来)→既在(過去)→現前(現在)だ。
到来する未来に、私はどうあるべきか → 既にある過去により、どんな私となったか → では現在、私は
何をなすべきか
この、現存在→実存、時間性への覚醒は、個人の超越です。ここに個人の生きる意味があり、超越した人は、
永遠に人々の心に生きる。
民族は、歴史性に覚醒したとき、文化の伝統を築き、民族の生命は、永遠に歴史に生きる。」以上、引用。

本作の映画の中の重要かつ有名なセリフ、
"What we've got here is failure to communicate." (コミュニケーションが取れんやつだ!)
"Sometimes nothin' can be a real cool hand."(時には何もないというのが一番強い手さ)
は、極めて「実存主義」的香りのするもの、と言えるだろう。>


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<ストーリー:結末まで触れています>
酔ったあげくに街のパーキングメーターをやぶったルーク(ポール・ニューマン)は懲役2年の刑を
言い渡された。刑務所仲間はドラグライン(ジョージ・ケネディ)ほか強面の連中ばかりだったが、
それ以上に、彼らを見守る看守の面々も猛者ぞろいだった。
囚人と看守の間には絶えず反目と憎悪の空気が絶えなかった。新入りルークの仕事は、炎天下に雑草を
刈り溝を掘るという重労働だったが、彼の新入りらしからぬ図々しくて、容量のいい態度は仲間の反感を買い、
とくにボスのドラグラインは気に入らなかった。

ある日2人は命をかけての殴り合いとなり、ついにルークが勝った。囚人のリーダーはドラグラインから
ルークの手に渡ったのである。数日後、ルークの母(ジョー・V・フリート)が訪ねてきた。面会時間が
切れて、病に老いた母の後ろ姿を見送った時、ルークは、母に会うことはあるまい、と思った。
そして、母の死を知らせる電報が来た時、彼は泣いた。3日後、ルークは脱獄した。逃げに逃げたが結局は
捕まってしまった。ひどい懲罰を受けた。だか彼は再度脱獄。
そしてドラグラインに、“冷たい手のルークより”と署名した手紙さえ送ったきた。監房の連中は口惜しがったが、
ひとりとして怒るものはいなかった。自由になったルークこそ彼らの願望の体現者なのだから。
しかし皆の期待を裏切ってルークはまた再び捕まってしまった。厳重な足かせをはめられ独房にほうりこまれた。
それでも彼は反抗をやめない。そして、三度脱獄。今度はドラクラインも一緒だった。だが途中で2人は仲間割れ。
ドラグラインは1人になり急に恐くなった。死にたくない。ルークも死なせたくない。半分は親友への愛から、
半分は恐怖からルークの居場所を密告した。
瀕死の床でルークは、医学的な治療をすべて拒絶した。迫りくる死を待つ彼の表情は美しくさえあった。今日も
囚人たちは炎天下で働いている。言葉ををかわさない彼らの胸の中には権威に反抗し続けて、屈することを
知らなかった冷たい手のルークが生きている。(Movie Walker)

この映画の詳細はhttp://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=21288#1こちらまで。


by jazzyoba0083 | 2016-11-23 22:20 | 洋画=は行 | Trackback | Comments(0)