わらの犬 Straw Dogs

●「わらの犬 Straw Dogs」
1971 アメリカ  ABC Pictures Corp. 115min.
監督・(共同)脚本:サム・ペキンパー
出演:ダスティン・ホフマン、スーザン・ジョージ、ピーター・ヴォーン、P・T・マケンナ他
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<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>
事前に「サム・ペキンパー 情熱と美学」という彼の一生を描いたドキュメンタリー映画を
観ていたのでだいぶ理解が得られやすかった。西部劇を手がていたペキンパーが最初に
挑んだ現代劇である。

猫の死体が発見されるまでの伏線というか後半に怒涛のように流れていくまでがやや
退屈だったが、その後の展開は目まぐるしく、短いカットのモンタージュ、スローを
使った表現などから、ラストシークエンスの一大暴力破壊シーンに至るまでは息つく
暇がないスピード感である。

「むき出しのヒリヒリするバイオレンス」を通して主人公デヴィッド(ホフマン)が
表現する人間の本性と加速の表出が見事。暴力シーンなら今なら手持ちカメラを多用する
ことで心情も併せて表現するのが昨今だが、本作では敢えて固定カメラを使い、硬質な
恐怖感というものを演出している。それが窮屈な恐怖感(家屋の中という)をも
表出させていたのではないか。製作された頃のアメリカの状況をみればベトナム戦争は
泥沼で、公民権運動などで国内は荒れていた。
そんなアメリカを逃れ妻の実家であるスコットランドを訪れたデヴッドとエイミー夫妻。
彼らが居を構えた村は、「排他的なキリスト教的村社会」。その村での若者たちも
閉塞感に悶々としている。

本来平和主義のデヴィッド、車庫の屋根を修理に来ている若者たち。セックスだけが
夫との絆と思い込むそう賢くない感じの妻エイミー。修理の若者たちを自分の肉体を
晒すことで挑発。やり過ぎの程度が分からないエイミーはついには若者に輪姦されて
しまう。が、デヴィッドには言えない(言わない)。デヴィッドとエイミーの間には
冷たいものが横たわり始めていた。天文物理学者であるデヴィッドはエイミーの理解の
無さに辟易することもあった。そうした伏線のかずかずは上手い脚本である。

さて、この映画の白眉のラストシークエンス、知能が足りない大男が女の子に誘われ
洞窟に行くが、誤って殺してしまう。逃げている大男を、酒場から帰るデヴィッド夫妻の
運転するクルマがはねてしまう。家に連れて帰り医者に見せなくては、という夫と
追いかけてきた手に手に猟銃をもった娘の父親と屋根を修理していた若者たち。

大男を渡せという追手の男たちは酔も加わってまるで暴徒である。まどから石をなげ
こんで来る。大男を引き渡せ、という妻とで家の中でも対立が起きる。その間、銃でドアを
撃ち侵入しようとする。事態収集に来た判事も彼らは射殺してしまう。

そこからの一大アクションシーンは伏線であった大きな鉄製のけもの用の鰐口の罠の
存在をどうにかするのだよなあ、並べて煮始めた油は外に向かって掛けるんだよなあ、
などと推測しながら、大人しいむしろチキンのデヴィッドが、さまざまな仕掛けを
工夫し、多勢に無勢の状況を打開、容赦ない外からの攻撃、やがて彼らが家に入って
くると、暴力はさらに過激になる。西部劇から現代劇への第一歩としてはそのバイオ
レンスの表現に西部劇調を見ることが出来る。
ここにおいての最大の見ものはダスティン・ホフマンの顔を変貌だろう。本来心の奥に
あった凶暴さが目覚めて火が付き、顔つきさえ変わっていく所だ。

ラストで大男をクルマに乗せて、我が家を後にするラストシーン、大男が「家に帰る
道が分からなくなったよ」という。するとホフマンは「俺もだ」とにやりと笑って
返すのだが、相手側が悪いとは言え、何人も殺しているだけに、一体彼はどこへ行こうと
いうのか。デヴィッドに目覚めた「狂気」は、彼の本質を目覚めさせてしまったようだ。
恐ろしい結末。残してきたエイミーはどうするんだろう(知ったことではないのだろうが)。

「卒業」のラストシーンで提示された、キャサリン・ロスとのバスの中での未来に対する
不安にシークエンスは似ているが、暴力の果の全く見通せない今後とはその見え無さ加減の
方向性は全然違う。

そうしてみると、退屈と思った前半、これは後半のバイオレンスに流すためのテーゼと
して描かれたということが分かってくる。ペキンパーの構成に脱帽せざるを得ない。

ダスティン・ホフマンは、争いを避けたいとはいえ話し合いだけではつかない結論があると
いうことに目覚めてしまった。本来は(イライラはずっと感じていたが)温厚な天文宇宙学
の学者、という役どころを好演。スーザン・ジョージはものの見え方や世界観が狭く、
感情的な存在としてキャスティングされたと思うがそうした意味で言うバカっぷりは
いいんじゃないかな。

先に書いたドキュメンタリーの中で、スーザン・ジョージのダイコンぶりにダスティンや
監督は相当苦労したようだ。またダスティンは最初の頃、ペキンパーと意見が合わず、
監督から「好きに演りゃいいさ」と言われたとか。

ペキンパーにより「人間のもつオルターネイトな側面」が「ヒリヒリするような」感性を
以て描かれた傑作といえよう。ホフマンとしても代表作の一つとなった。

因みにタイトルは老子/五章『天地不仁、以萬物爲芻狗 聖人不仁、以百姓爲芻狗』
「天地は非情で、万物をわらの犬のように扱う。聖人も非情で、万人をわらの犬のように
扱う。」から取られているそうだが、「世界は所詮、非情」ということか?
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<ストーリー:結末まで書いています>
現代。アメリカの若い宇宙数学者デビッド(ダスティン・ホフマン)は、自らの平和
主義の信念に従い、暴力に満ちたアメリカの現体制に反発し、エミー(スーザン・
ジョージ)と共にイギリスに渡った。

コーンウォール州の片田舎にある農家に住み、何ものにも煩わされることなく数学の
研究に専念し、書物にしようと考えていた。エミーもコーンウォール出身で、この村に
移ってくるとたちまち村の若者の眼をひいた。デビッド夫妻は農家に落ち着くと、
早速職人たちを雇って納屋の修理をさせることにした。
ところが、その中に、エミーがデビッドと結婚する前に肉体関係のあったベナー(デル・
ヘナー)がいたのだ。
ある日、デビッドが村の若者たちにすすめられ、彼らがあらかじめ用意しておいた狩場へ
鳥を撃ちに出かけた留守中に、彼を誘いだす計画をたてたベナーとスカットがエミーに
暴行を加えた。

数日後、村の教会で村人たちの懇親会が開かれ、デビッド夫妻もそれに出席した。懇親会は
なごやかな雰囲気の中で行なわれたが、エミーは楽しめなかった。彼女の記憶の中に、
ベナーたちに犯された時の恐怖と苦痛、それらの感情と矛盾した歓びに似た感情が交錯し
ていたのだ。
だがデビッド夫妻の運命を狂わせる事件は、そのなごやかな雰囲気の懇親会が発端だった。
懇親会に出席していた精神薄弱者のジョン・ナイルス(ピーター・アーン)が村の行動的な
娘エマに誘い出され、納屋に入った。エマの兄ボビーは、エマがジョンと行方をくらまし
たことを父親トム・ヘッドン(ピーター・ヴォーン)に告げるとトムは怒り狂い、次男の
バーティーも呼んで、2人を探しにでかけた。
一方納屋の中で隠れていたジョンは、彼女をヘッドン一家が探しだしにきた気配を感じ急に
あわてだした。エマは思わず悲鳴をあげた。狼狽したジョンは両手で彼女の口をふさごうと
したが、遂に首を絞め死に至らしめた。
ジョンは自分の過失の重大さに気づき、濃霧の中を道路に飛びだした。一方、デビッドと
エミーは懇親会の帰途、車が村端に差し掛かると、突然ヘッドライトの中にジョンが飛び
込んできた。デビッドは驚いて車を止めたが間に合わなかった。

ジョンは車にはねられ傷を負った。デビッドはジョンを家に連れて帰り傷の手当てをした
後、村の酒場に連絡し医師をよこすよう依頼した。ちょうどその酒場には、ジョンを探し
回っていたヘッドン一家がいたため、彼らは直ちにデビッドの家に押しかけ、ジョンの
引き渡しを要求してきた。だがデイヴィッドはこれを聞き入れようとはしなかった。
彼を渡せば、なぶり殺しにされてしまうことが火を見るより明らかだからだ。彼は戦う
決心をした。数時間の死闘がくりひろげられた。デイヴィッドの頭脳的な作戦の前に一家は
破滅した。

<IMDb=★7.5>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:91% Audienc Score:82% >


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by jazzyoba0083 | 2018-02-28 23:10 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)