山猫(完全復元版) Il gattopardo

●「山猫(完全復元版) Il gattopardo」
1963 イタリア Titanus (Rome)Société Nouvelle Pathé Cinéma. 187 min.
監督:ルキノ・ビスコンティ 原作:ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ
出演:バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ、リナ・モレリ、パオロ・ストッパ他
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<評価:★★★★★★★★☆☆+α>
<感想>
イタリアの映画史に出てくる巨匠と呼ばれる監督の作品は殆ど観ていないと、かつて(「ヴェニスに死す」の時)
書いた。それを書いた時にヴィスコンティを初めて観たのだった。そして今回、NHKBSで「山猫 完全復元版」を
放送してくれたので、Rotten Tomatoesで評論家から100%という支持を貰っている作品がどのようなものであるか、
再度この巨匠に挑戦してみた。長いなあ。

19世紀中頃のイタリアはシチリア島の貴族のドラマだ。ヴィスコンティの作劇が一体どのような精神背景が
あるのか、深く観ているわけではないから分からない、というのが正直なところだが、「ある貴族の諦観」のような
ものを感じた。特にラストシーンからは強く。長い物語で日本人には馴染みのない土地や家名が出てくるので
整理にやや苦労するところはあるものの、流れとしては難しい事を描いているわけではない。むしろ、貴族の
普通の暮らし(貴族に普通の暮らしがあるのかどうかは知らないが)を粛々と描くことによって、主人公サリーナ
公爵(ランカスター)の考えや、周りを取り巻く人間の思惑が浮かび上がってくる構造ではなかったか。

サリーナ公爵、甥のタンクレディ(ドロン)、俗物である市長、その娘でタンクレーディと結婚することになる
アンジェリカ(カルディナーレ)、そしてタンクレーディを愛しつつ、彼が自分を選んでくれなかったことを悲嘆
(半ば怒り)に暮れる公爵の娘コンチェッタという人物を中心として物語は進む。

貴族として先祖から長い間シチリアに暮らし、時あたかもイタリアに自由運動が押し寄せ、ファブリッツォも流れに
身を任せるしか無いような時代となった。変わり身の早いタンクレーディは、一時自由戦線に加わったかと思うと、
世の中が落ち着くとさっさとそこを抜け王国側に付き、更に俗物市長の娘と知りつつ結婚する。それとてアンジェリカを
どの程度愛していたのかは不明である。

ファブリッツォは恐らく貴族間の政略結婚だったのだろう、愛していない妻がいた。彼は極めて常識人で口に出す
言葉はいちいちその通りだ。そうした環境で貴族院議員に推挙されるのだが、「シチリアは変化を望まない。眠りに
つきたがっているのだ」と断ってしまう。ファブリッツォとタンクレーディは対比される存在。そのままでありたいと
思うか、常に変化に柔軟に世の中を渡るか、それは「ヴェニスに死す」で描かれた初老の芸術家と美少年との対比とも
似ている。滅びゆくもの、老いて消えていくもの、それに対して、伸びゆく若いエネルギー、美しい若さ、変化して
行くもの。貴族と新興勢力、老いと若さ、それに対する主人公の絶望的な悲しみと諦観。

そして圧巻である全編の三分の一を占めるタンクレーディの結婚祝賀ダンスパーティのシーン。
「かつて、われわれは山猫であり、オオカミだった。今や羊や野犬が取って代わろうとしている・・」ファブリッツォの
このセリフを導入部とする、このシーンにこそ映画のタイトルを表すと同時に映像を通した本作のヴィスコンティの
主張があったのではないか、と感じたのだった。特にアンジェリカと踊るシーンには、就中その意味合いが深く表れて
いた。
2作しか観ていないヴィスコンティの映画だが、そうした「(性的な側面も含め)高踏的」な(ヴィスコンティ自身貴族で
ある)人生観へのアプローチを強く感じたのだった。

どのカットも一幅の絵画を思わせる計算され尽くした画角と色彩。その色彩を演出する貴族らの衣装。赤と青の対比。
映像としての「ヴィスコンティ芸術」の極致なのだろう。この映画はイタリア語がマストであるわけだが、アメリカ
人のランカスター、フランス人のドロンとも極めて上手くイタリア語を操っている。が、ネタバラシで申し訳ないが
彼らのイタリア語は吹き替えである。それがこの映画の価値を落としてはいないけれど。

ヴィスコンティ、機会があれば、名作と言われる「地獄に落ちた勇者ども」「家族の肖像」あたりは機会があれば
観てもいかもしれない。

ラストシーンで、場末の教会前にひざまずいたファブリッツォの、明けの明星、金星に向かって独り言つ
「いつになれば永遠の世界で会えるのであろうか」とは、何の意味を含んでいるのであろうか。ファブリッツォに
とって金星とは何か。「滅びゆく己の死への希求」こそ「希望」なのだ、という「諦観・達観」であったのだろうか。
人生の儚さを含みつつ映画は終わった。
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<ストーリー>
1860年春。イタリア全土はブルボン王朝から、国王ビクトル・エマニュエルの統治下に入った。シシリー島の名門を
誇っていたサリナ公爵(バート・ランカスター)にとって、政治的変動は大きなショックだった。
そんなある日、サリナ家は田舎の別荘に出掛けた。一行の中、公爵の甥タンクレディ(アラン・ドロン)は
ブルボン王朝側と戦った革命派で早くも公爵の娘コンセッタの心をとらえていた。

一家が田舎に着くと村長のドン・カロゲロ(パオロ・ストッパ)が歓迎会を開いた。彼は新興ブルジョアの一人だ。
コンセッタはタンクレディと結婚したいとまで考えていたが、村長の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)の
出現が、タンクレディをひきつけ、彼が求婚までしたと聞いて絶望した。

タンクレディが所属連隊に復帰すると間もなく公爵に手紙を送り、アンジェリカとの挙式の手配をしてくれと頼んだ。
公爵夫人(リナ・モレリ)は彼を貴族を裏切るものだとののしった。公爵にとっては、娘の心の痛手もつらいがその縁組が、
彼の貴族としてのプライドの故に嫌悪とバツの悪さを意識した。タンクレディとアンジェリカは毎日のように会い、
愛情は燃え上った。アンジェリカも平民の娘と思えぬ程の気品を初めての舞踏会で漂わせた。その席で公爵は急に自分の
老いと孤独を感じた。アンジェリカの求めに応じて踊ったものの、何となくその場にそぐわない気さえする。
時代は代ったのだ。歴史の大きな歯車は少数の人間の意思とは全く無関係に回転していくものなのかもしれない。
公爵はやがてくる自分の死を考えていた。(Movie Walker)

<IMDb=★8.1>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:100% Audience Score:89%>




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by jazzyoba0083 | 2018-07-09 23:55 | 洋画=や行 | Trackback | Comments(0)