ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ Yankee Doodle Dandy

●「ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ Yankee Doodle Dandy」
1942 アメリカ Warner Bros.126min.
監督:マイケル・カーティス  音楽:ジョージ・M・コーハン
出演:ジェームズ・キャグニー、ウォルター・ヒューストン、ジョーン・レスリー、ローズマリー・デキャンプ
   ジーン・キャグニー他
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<評価:★★★★★★★☆☆☆>
<感想>
この時代のニュージカルは大好きで、よく観ている。本作も何回か観ている。いわゆるMGMやコロムビアの
エンターテインメントの作品とは趣を異にしていて、「ブロードウェイの父」と云われる演出家、作詞作曲家、歌手、
ダンサー、振付師、であったジョージ・M・コーハンの伝記映画という形を借りた、国威発揚、国民奮起増進型映画。

今でもアメリカ軍でよく歌われている「Over There」を作った人物としても知られる。コーハンは1878年に生まれ
1942年、つまりこの映画の完成の年にガンにより没している。一家そろって軽演劇に出演し、舞台を主な活躍の
場として、ボードビルやミンストレル、の要素を取り入れたショーを得意としていた。つまり幼い頃から舞台経験が
あり、一時期は「てんぐ」になっていて「嫌な奴」だった時期もあったようだが(その下りは映画に出てくる)、
両親の指導で、ギヤチェンジし、天才の花が開いた。

作品は1937年に10年ぶりで舞台に復帰したコーハンがフランクリン・ルーズベルト大統領を時に辛口に、時に
持ち上げて観衆を沸かせるショーを公演して当たっていたのだが、それを聞いたルーズベルト大統領本人から
ホワイトハウスに招かれ、自分の生い立ちを語りは始める・・・という形で始まる。

少年時代、妹が生まれ成長すると、親子と兄妹で、「コーハン4人組」を結成し、ジョージの作品と曲で構成された
ミュージカルを持って全米を公演して歩いたのだ。そのステージの出来の良さは評判となり、やがて伴侶となる
メアリーとの出会い、コーハンの良き理解者で優秀なプロデューサーとなったはリストの出会い、さらにコーハンの
曲を有名にしてくれた女性舞台歌手との出会い、そうした一連のサクセスストーリーで物語が進んでいく。

やがて両親も妹も亡くなり、一人になり、引退。妻メアリーと世界旅行をして、農場に引きこもっていた。そこに
冒頭で書いたルーズベルトを主役とした舞台の声がハリスからかかったのだった。ルーズベルトは「Over There」の
作曲などにより国に貢献してれたとして話を聞き終わった時に、コーハンに勲章を授けたのだった。時あたかも世界は
二度目の大戦に飲み込まれようとしていた。

実際はこの映画を作っている最中に真珠湾攻撃が起き、国民に対する戦意高揚の色彩がぐんと増した作品となった。
映画の中で打ち振られる星条旗の数は尋常ではない。この映画の本国での評価が高いことは映画の出来とは関係ない
ところの愛国者としての加点があるのではないか、と想像するのだ。
だからといってコーハンの業績が腐される筋合いのものでもないが。当時はこうした映画が沢山作られ、MGM映画や
コロムビア映画とて大同小異であった。

面白いのはこの映画、コーハン役を最初フレッド・アステアに持っていったところ断られ、ボードビリアン出身で
あるキャグニーにお鉢が回ってきて、映画会社の縛りの関係で、監督を、あの「カサブランカ」「ミルドレッド・
ピアース」「ホワイトクリスマス」のマイケル・カーティスが担当することになったのだという。
キャグニーのステージでのダンスはいかにもボードビリアン的でアステアと比較すると泥臭い。ステージの展開も
そうだ。だが、結果的にこれはアステアでなくて正解だった。

ここでコーハンの生涯とアメリカの戦争を時系列的に並べてみると、彼が生まれたときが1878年。
南北戦争が1861~65、米西戦争が1898、ハワイ併合も1898、第一次世界大戦が1914、ベルサイユ条約が1919、
(初のトーキー長編映画の上映は1927)ナチスのポーランド侵攻が1939、そして真珠湾が1942と、コーハンの
人生には何かしら戦争が付いて回っていたような時期だった。こうした中でアメリカが第一次世界大戦に参戦した
1917年に作られた「Over There」は、勇ましい戦意高揚の歌として国民に膾炙されるようになった。
この歌が大きなキッカケとなり、先に述べたように、コーハンは1940年、ルーズベルトから勲章を貰ったのだ。
芸人として「議会金勲章」を貰ったのは彼が初めてだった。

我々がアメリカのミュージカルと言うと、アーヴィング・バーリンとかリチャード・ロジャーズとか、
コール・ポーターとかという作曲家の名前が口について出てくるわけだが、映画でヒットした作品もほとんどが
元を正せばブロードウェイの舞台の成功作。この先鞭を付けてきた(pathfider)がジョージ・M・コーハン
だったのだ。彼の作った曲は日本ではそうポピュラリティを獲得たわけではないが、舞台においてミュージカル
ショーの原型を完成させた広い才能は、アメリカではパイオニアとして当然のこととして理解されているのだろう。

NYのタイムズスクエアには作詞家オスカー・ハマースタイン二世らが寄贈したコーハンの銅像が建っている。

作られた時期や彼が作った国威発揚歌などからプロパガンダの匂いがする映画になったことは仕方がないとして、
コーハンの業績は永遠なのだ。

因みに「ヤンキー・ドゥードゥル」とは、アメリカの独立戦争の時に歌われた作曲者不明の歌で、日本では
「アルプス一万尺」として知られている。「ドゥードゥル」とは「間抜け」というほどの意味らしい。
この歌は現在コネチカット州の州歌となっているという。

というわけで、本作はアメリカのミュージカル史に興味がある人にはとても面白く、そうでもない人には
モノクロだし、ちょっと、かもしれない。キャグニーは本作でオスカーの主演男優賞を獲得している。
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<ストーリー:結末まで書いてあります>
1937年、ジョージ・M・コーハン(ジェームズ・キャグニー)はほぼ10年ぶりに舞台にカムバックした。
この作品でコーハンはフランクリン・D・ルーズベルト大統領を演じたが、何とその大統領自身から
ホワイトハウスへの招待の電報が届いた。そこでコーハンは大統領と対面し、自分が歩んだ道を回想する。

彼の父ジェリー・コーハン(ウォルター・ヒューストン)、母ネリー(ローズマリー・デ・キャンプ)は
ともにボードヴィルの芸人だった。やがて妹ジョニーも生まれ、一家はコーハン4人組として巡業を続けた。

旅から旅の暮らしでコーハンも大人になり、あるとき白髪の老人役をやった。その舞台を見ていたのがのちに
結婚することになるメーリー(ジョーン・レスリー)だ。コーハンは彼女の歌を認め、劇場主に無断で自作の
歌をうたわせたことが原因で劇場主と大ゲンカ、完全にほされてしまう。そこで作詞・作曲の仕事に活路を
求めるが、買ってくれるところもなく失意のドン底をはい廻るが、のちに製作者としてコンビを組むことになる
サム・H・ハリス(リチャード・ウォーフ)とめぐり会いついに「リトゥル・ジョニー・ジョーンズ」の上演に
こぎつけた。これは初期のコーハンの代表作となり、彼はスター街道を歩み始める。

そして2年後の「ブロードウェイから45分」でも成功を納め、ブロードウェイにはジョージ・M・コーハンの
時代がやってくる。やがて第2次世界大戦が始まった。コーハンは入隊を志願したが年齢オーバーではねられ、
代りに前線慰問に情熱を注いだ。1920年代のブロードウェイは以前にも増してコーハンの時代になり、いくつもの
劇場で彼の作品が上演された。仕事の上では絶頂期を迎えたが、代りに次々と家族の死に見舞われた。
プロデューサーのサム・H・ハリスとも長年のコンビを解消、1928年の「ビリー」で引退。
妻のメーリーと世界旅行に出て、帰国後は農場で暮らすようになった。10年もたつと彼の名前すら知らない
若い人が出てくる、そんな時代になった。その頃、旧友サム・H・ハリスからカムバックの要請が来た。
それが「私はむしろ正しくありたい」だった。長い回想が終わったとき、大統領は彼に名誉勲章を授けた。
(Movie Walker)

<IMDb=★7.8>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:92% Audience Score:83%>






by jazzyoba0083 | 2018-07-29 11:50 | 洋画=や行 | Trackback | Comments(0)