カテゴリ:洋画=ら~わ行( 207 )

●「ロング、ロングバケーション The Leisure Seeker」
2017 エメリカ Indiana Production Company,Bac Films,Rai Cinema. 112min.
監督:パオロ・ヴィルズィ  原作:マイケル・ザドゥリアン『旅の終わりに』
出演:ヘレン・ミレン、ドナルド・サザーランド、クリスチャン・マッケイ、ジャネル・モロニー他

e0040938_16424242.jpg
<評価:★★★★★★★☆☆☆>
<感想>
私らぐらいの年齢になると、身につまされる内容なので、エンディングは賛否が分かれるだろう。
私も、なんとなく判然としないものは残ってしまった。だが、主役2人の老名優の演技は、観ている
でだけで引き込まれるものがあり、老齢期に訪れるであろう、夫婦の戸惑いを見事に演じていた。
原作があるので、大きくは改変しずらかったとは思うが、先述のように、エンディングはそれまでの
とぼけた味を吹き飛ばすシリアスぶりである。

ボストンの元英文学教授ジョン(サザーランド)は、記憶がまだら模様のアルツハイマー型認知症。
50年連れ添った糟糠の妻エラは、末期ガンだ。ある日、2人は長年乗って家族で思い出を作ってきた
キャンピングカー、「Leisure Seeker」で、夫が一度は観たいと言っていた、フロリダはキーウェストの先端に
ある敬愛するヘミングウェイの自宅への旅行に出かけた。運転は夫(認知症だけど運転は出来るようだ。という
ことはまだそう酷くはないのだろうか)。だが彼の記憶はまだら模様で、時々一瞬普通の人に戻るのだが、
すぐに呆けてしまい、自分と初恋の女性との区別がつかなくなったり、オネショしたり。一方のエラは
ガンの痛みを薬で押さえウィッグを被っているが、もう踏ん切りを付けたのか、夫をリードして国道一号線を
南下する。

子どもたちは両親がボロのキャンピングカーで居なくなったことに大騒ぎ。だが、大学教授の娘は
やたら冷静。弟が一人であたふたとしている。娘は両親が何をしに出かけたか、を薄々分かっていた
のではないか。

さて、ジョンとエラは毎晩どこかのキャンピングカーのサイトに泊まり、エラが持ってきた昔の
写真のスライドをシーツに写して昔を懐かしんでいる。ジョンはそこに写っているのが誰だか分かったり
分からなかったり。いろんな人を巻き込み、主に意思が通じないことに苛つきながら我慢のエラと
「恍惚の人」状態のジョンの道中は、ついにヘミングウェイの家に到着する。だが、そこでエラは倒れ、
ジョンの知らないうちに病院に救急搬送される。病院では「生きているのが不思議」と医師に言われる。
後を追ってきたジョンはベッドに横たわるエラと再開できた。しかし、2人は病院を抜け出てキャンピング
カーに戻った。そこでエラが取った行動は・・・エラは服を着替え、寝ているジョンにメガネを付けて、
排ガスが漏れるので蓋をしていた床のビニールテープを外し、(映画の最初の方で、キャンピングカーの
床から排ガスが室内に漏れるので、エラがテープで蓋をする、という伏線がある)痛み止めの薬を全部飲んで
ジョンの傍らに横になった。ジョンを抱きしめて・・。

エラが無理心中をしたのは、最初から狙っていたのか、自分の最後が近いから、このままジョンを置いて
逝けないから連れて行く、とフロリダで覚悟を決めたたのかは分からない。子供らに残した手紙には先述の
ようなことが書かれていたが、ラストあたりの展開を観ると、ジョンがかなり長い間、自分と浮気相手の
区別が付かなくなって、「別れよう、私には愛する妻エラがいるだ」とかいうところが決定的な動機に
なったような気がする。だがそれは心中の時間を早めただけであり、エラはこの長いドライブを、己と2人の
人生の振り返りと総括の旅にするつもりだったと思えるのだ。

まだ生きる道が残されているジョンを道連れにしたことはエラの身勝手だったのだろうか。いずれにせよ
ジョンは遅かれ早かれ子どもたちの厄介になることは明らか。ならば自分が連れて行ったほうがいいのでは
ないか。エラ自身多少生きながらえられたとしても、自分を自分の妻と認識できなくなることは、エラに
取っては耐え難いことだったのだろう。何も、夫まで・・・と思うか、夫の行末を考えれれば夫に取っても
幸せなことだったと考えるか。 ラストシークエンスは重い課題を提示している。
自分が同じ立場になったら、おそらく道連れにされて文句は言わないと思ったのだった。

事実としてそうであっても、映画の表現として、同じことを言い表わそうとしたら他の表現方法があったの
ではないか、と考える人も多いだろう。それまでが結構コミカルでファニーなテイストで進行してきたから。
(ラスト近くまで、「認知症」「末期がん」という言葉は出てこない。それらは、ジョンの行動であったり、
エラのウィッグや薬の服用シーンが語るのだ。その辺りのデリケートさはうまい演出だな、と感じた。)
だからこそのラストの落差という指摘も間違いではない。難しい・・・。母親似である娘(大学教授)の
冷静さ、がなにか暗示的であるのと、作品中にたくさん使われる70年代の音楽の内、冒頭がセコハン店を
経営する息子のトラックから流れるキャロル・キングの「It's too late」、ラストのエンディングロール
バックのジャニス・ジョプリン「Me and Bobby MaGee」(元歌はクリス・クリストファーソン)も暗示
的である。
特にこのエンディングテーマの歌詞は、示唆に富む。(私がボビーにケンタッキーからカリフォルニアまで
ヒッチハイクで連れてってもらう、途中でボビーは去るっていくという話)

Freedom's just another word for nothing left to lose,
Nothing, and that's all that Bobby left me, yeah,
And feeling good was easy, Load, when he sang the blues,
Hey, feeling good was good enough for me, hmm hmm,
Good enough for me and my Bobby McGee.
自由というのは
失うものを何も持っていないという意味の
ありふれた言葉だ。
何もないということ。
それがボビーが私に残してくれたすべてだった。
かれがブルースを歌えば
いい気持ちになるのは簡単なことだった。
そうですかみさま。
いい気持ちになれたら
それで充分だった。
わたしとボビー·マッギーには
それで充分だった。
©「華氏65度の冬」ブログ

80歳を超えているサザーランド、70歳を超えているヘレン・ミレン。彼らの体現してきた実人生を含め
納得の演技である。ボストンから陽光輝くキーウェストまでのロードムービー。ストーリーは太陽の輝きと
は逆行する暗転である。

e0040938_16424961.jpg
<ストーリー>
マイケル・ザドゥリアンのベストセラー『旅の終わりに』をヘレン・ミレンとドナルド・サザーランドの共演で
映画化したハートフル・ロード・ムービー。
妻は末期ガン、夫はアルツハイマーという老夫婦が、愛用のキャンピングカーで思い出の道を辿る旅の行方を、
ユーモアを織り交ぜ心温まるタッチで綴る。監督は「人間の値打ち」「歓びのトスカーナ」のパオロ・ヴィルズィ。
 
エラとジョンは50年連れ添ってきたベテラン夫婦。末期ガンを患い人生の終わりが近いことを覚悟したエラは、
病院での治療に見切りをつけ、最愛の夫とキャンピングカーで夫婦水入らずの旅に出る。目指すは、ジョンが
敬愛するヘミングウェイの家があるフロリダのキーウェスト。しかしジョンはアルツハイマーが進行中で、
道中もたびたび記憶が混乱してしまう。それでも心配する子どもたちをよそに、2人で人生を追想しながら
目的地を目指してアメリカを南下していくエラとジョンだったが…。(allmovie)


<IMDb=★6.6>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:37% Audience Score:56% >
<Metacritic=45>
<KINENOTE=74.6点>

by jazzyoba0083 | 2019-04-08 23:10 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「レイチェル My Cousin Rachel」
2017 イギリス・アメリカ Fox Searchlight Pictures,Free Range Films.106min.
監督・脚本:ロジャー・ミッシェル  原作:ダフネ・デュ・モーリア「レイチェル」(1951年)
出演:レイチェル・ワイズ、サム・クラフリン、イアン・グレン、ホリディ・グレインジャー、アンドリュー・ノット他

e0040938_22565527.jpg
<評価:★★★★★★★☆☆☆>
<感想:ネタバレしています>
今年のオスカーでオリビア・コールマンが主演女優賞を獲った「女王陛下のお気に入り」でエマ・ストーンと
2人で助演女優賞候補になっていた演技派のイギリス女優レイチェル・ワイズ。現在ダニエル・クレイグの奥様で
ある。ケンブリッジ大出身の才媛。そのレイチェル・ワイズが謎の女性を演じるサスペンス・ラブストーリー。
結局結論は出ないので、隔靴掻痒な感じを覚える人も多いと思う。日本劇場未公開・WOWOWにて鑑賞。

伏線的な光景や映像やアクションが観客のミスリードを誘う。果たしてレイチェルという女は悪女だったのか、
違うのか。ミステリとしての原作があるので、それになぞった映像表現をしたのだろうけど、物語のサスペンス
フルな進行は、イライラするけど、それはそれで面白かった。ボイスオーバーを担当するフィリップという男性の
目を通して、レイチェルという女性が語られる。ちなみに原作者のイギリス女性ダフネ・デュ・モーリアは
ヒッチコックの「鳥」「レベッカ」の原作者でもあるから、サスペンスものの書き手としては一流で物語としての
基礎は面白い出来だとは想像出来る。これを監督ロジャー・ミッシェル(「ノッティングヒルの恋人」の監督)は、
20世紀初頭のイギリスの田園地帯の雰囲気とややローキーな映像、上手い光の使い方、常道だがサスペンス気分を
盛り上げる音楽の使い方と作劇としては上手いこと構成、演出していたと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
フィリップという24歳のイングランドの海に近い田園に住む青年。両親を早くに亡くし、従兄弟のアンブローズに
育てられた。フィリップはアンブローズを父とも兄とも思い、心の底から信頼し愛して成長した。女性に関しては
まったく関心の外だった。そのアンブローズが病気療養のため暖かいフィレンツェに行くことになる。一人になる
フィリップは孤独だった。ある日、アンブローズから従姉妹のレイチェルという女性と知り合い結婚する、と
いう手紙が来た。更に、レイチェルに殺される、早く来てくれ、という危急を知らせる手紙が後を追うように
来る。急ぎフィレンツェに赴くフィリップだったが、すでにアンブローズは脳腫瘍で死んだと知らされる。

アンブローズはレイチェルに殺されたに違いない、と確信したフィリップだったが、アンブローズの遺言は手を
加えられておらず、フィリップが25歳で相続することになっていた。

そのレイチェルがイギリスに来るという。24歳で領主となり、多くの使用人や小作人を抱えることになった
フィリップは教父の娘が彼に心を寄せいていることに気づかないまま、「レイチェルにアンブローズが味わった
地獄の思いをさせてやる」と手ぐすね引いていた。が、女性の魅力を全く知らないまま育っったフィリップは
一発でレイチェルの魅力の虜なってしまう。そしてレイチェルが毎日淹れてくれる謎のハーブティーを飲むの
のだった。次第に幻影を見始めるフィリップ。しかし彼はレイチェルへの思いが嵩じ、25歳の誕生日を期して
アンブローズから相続した全財産と先祖代々受け継いできた大量の宝石を、周囲の反対を押し切ってレイチェルに
譲る書類を作ってしまう。ただ顧問弁護士のたっての頼みで「再婚したら財産はフィリップに戻る」という
一言が付けられた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、レイチェルはアンブローズを毒殺したのか、またフィリップを財産狙いで毒のお茶で殺そうとしたのか、
その真相は最後まで謎のままで映画は終わる。アンブローズがイギリスに来てからお金を海外に送金している
とか、フィリップの関係者が内偵すると、レイチェルは金遣いが荒く、放蕩の限りを尽くす怠惰な女だ、と
いう評判が聞こえてくる、とか、アンブローズの「助けてくれ、レイチェルに殺される」という手紙の発見とか、
レイチェルの部屋からフィリップのことを心底心配している、という手紙が出てきてみたり、見ている人の
判断を迷わせるようなプロットがたくさん出てくる。

最後にレイチェルは馬に乗り散歩に出て、崖から海岸に落ちて死んでしまうのだが、なぜ死んだのか。
悪事がバレて、もはやこれまで、と悟ったか、あるいはアンブローズも実は本当に脳腫瘍で錯乱していて
レイチェルに殺される妄想を見ていただけで、レイチェルはアンブローズを心から愛していたし、彼に
そっくりのフィリップも愛していた。しかし、そのことを信じてもらえなくて絶望したのか、果たしでどう
だったのだろうか。結論は見る人に委ねられる。私は物語上の証拠やさも毒のお茶っぽいものを飲ませる
シーンなど、悪女と思わせておいて実はいい女であったというのが本当のところではないか、と推察する。
こうした性格を演じるにはレイチェル・ワイズはピッタリであった。原作があるので仕方がないが、伏線の
埋め方があざとすぎて観客を必要以上に翻弄してしまっている感じのする作品でもある。

e0040938_22570234.jpeg

<ストーリー>
幼い頃に両親を亡くし、従兄のアンブローズに育てられた青年フィリップは、父親のように慕うアンブローズが
療養先のイタリアで従姉妹で未亡人のレイチェルと結婚したとの手紙を受け取る。 当初は幸せそうな
アンブローズだったが、ある日、レイチェルの目を盗んで書き送ったという手紙で、病に伏せており、助けて
欲しいとフィリップに訴える。 イタリアに駆けつけたフィリップはレイチェルの弁護士というライナルディから
既にアンブローズが脳腫瘍で亡くなったこと、そして病気が原因の妄想によってレイチェルらに対して暴力的に
なっていたことなどを知らされる。
アンブローズはレイチェルに殺されたと確信したフィリップだったが、アンブローズの遺書が書き換えられておらず、
財産はこれまで通り、フィリップが25歳になった時点で全て相続することになっていることに疑問を抱く。

フィリップが主人となった屋敷にレイチェルがアンブローズの未亡人としてやって来る。憎しみの気持ちで彼女を
迎えたフィリップだったが、彼女の美しさと淑やかさにすっかり心を奪われてしまう。 周囲の人々はレイチェルに
は欲深い裏の顔があると忠告するが、聞く耳を持たないフィリップは弁護士に依頼し、25歳の誕生日にアンブローズの
遺産を相続した時点で、その全てをアンブローズの妻だったレイチェルに譲る手続きをしてしまう。
そして、25歳の誕生日を迎える前の夜、フィリップはついにレイチェルと結ばれ、財産の譲渡契約書をレイチェルに
渡す。

その日以降、レイチェルはフィリップからの求婚を頑なに拒むとともにフィリップと距離を置くようになる。
彼女の態度の急変に戸惑うフィリップは体調を崩し、さらにアンブローズが「レイチェルに殺される」と走り書きした
メモを見つけたことでレイチェルに対する疑いの気持ちを膨らませていく。 そして、馬で遠乗りに行こうとする
レイチェルにフィリップは「今の時期ならアザラシの子が見られる」と言って以前自分が落馬して転落死しかけた
崖に行かせる。 その間にレイチェルが自分を殺そうとしていることを示す証拠がないか探すフィリップだったが、
そのような証拠は何もなく、逆にレイチェルがフィリップを心から気にかけていることが弁護士からの手紙で明らか
になる。
愕然としたフィリップはレイチェルの後を追う。しかし、既に彼女は乗っていた馬とともに崖下に転落し、息絶えていた。

フィリップは幼馴染のルイーズと結婚し、子をもうけるが、レイチェルに対する罪悪感に苛まれ続けることになる。
(wikipedia)

<IMDb=★6.0>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:76% Audience Score:45%>
<metacritic=63>
<KINENOTE=60.4点>



by jazzyoba0083 | 2019-04-02 22:50 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

ROMA/ローマ  Roma

●「ROMA/ローマ Roma」
2018 アメリカ Esperanto Filmoj,Netflix,Participant Media.135min.
監督・撮影・脚本・(共同)製作・編集:アルフォンソ・キュアロン
出演:ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タビラ、マルコ・グラフ、ダニエラ・デメサ、カルロス・ペラルタ他

e0040938_16253358.jpg
<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>
今年のオスカーをいろんな意味で賑わした本作、Netflixでしか観られないのか、と思っていた所、
日本ではイオンシネマズで上映してくれることが決定、さっそく行ってきた。平日の朝という
こともあったのだろうが、あれだけ評判と話題になった映画の割には客の入りは悪かった。
モノクロだし、知ってる俳優さんはゼロだし、アート系の作品だし、まあ仕方のないことかも知れない。
極めて内省的な映画で、オスカーで作品賞を獲った「グリーンブック」の極北に位置すると言っても
過言ではないかもしれない。

本作はベルリン国際映画祭で金獅子賞を獲って、オスカーでも多くの部門にノミネートされたものの、
結果的には外国語映画賞、撮影賞、監督賞という結果に落ち着いた。獲るか!と言われていた作品賞は
「グリーンブック」に持っていかれた。配給がNetflixという動画配給会社で、映画館では原則上映され
ないということで、物議を醸した。オスカーのイベント後に、映画芸術科学アカデミーの役員である
スピルバーグはNetflixをオスカーから締め出す提案を役員会にしている。

本作は、映画鑑賞の読み解きにチカラのある人でないと、その良さをはっきりと読み解くのは難しいかも
しれない。評判の映画だから、と言って、おっとりがたなで劇場へ行くと、「は?これの何が面白いの?」
という結果になりかねない。私も、だいたいのアウトラインは知ってはいたが、淡々と繰り広げられる
メキシコシティのコロニアローマ地区で数ヶ月に展開される中流家庭とその家政婦の話は、その
物語の背景に、キュアロン監督の幼い頃の体験が投影されていて、その言わんとする所は、幼いころには
分からなかった、メキシコ先住民女性や母親(女性)に対する「詫び状」(町山智浩氏)だということを
知らないと、良さが読めないのではないか。

キュアロン監督はここに描かれている90%は真実でだと話している通り、彼自身裕福な家庭に育ち、家に
「ねえや」と言われる家政婦さんがいて、忙しくて殆ど家にいない父親がいたという。1970年から71年頃の
メキシコは、長期政権が腐敗し、農村や学生からの不満が充満していた時期で、作品中にも「血の木曜日」
と称される暴動が描かれている。主人公の家政婦クレオの彼氏だった男で、2人で映画を観ている最中、
彼女から妊娠したといわれ、姿をくらますやつは、政府に雇われた暴力集団に入ってしまう。
また一家の主人は忙しくて家にいないことが多いのだが、どうやら他の女のところにいっているらしい。

そうした背景はすべてキュアロン監督が幼い頃に何も知らずに記憶の背景にあったもので、自分はこれを
描くことで当時の母や先住民家政婦さんに謝罪し無くてはならない、何も知らなかった無知という罪を贖う
ために作ったと語っているのだそうだ。そのように、当時のメキシコの白人なのだが、母親の立場への、
また先住民女性の意識しない階級差別的な生活(妊娠した彼女は結局死産してしまう)に対し負い目を
抱えてキュアロン監督はこれまで生きて来たわけだ。ラストシーンで子供らを溺死寸前で助け出す泳げない
クレオの背後から太陽が射すシーン、ラストカット(エンドロールがかかるカット)はクレオが屋上へと
駆け上がったあとの階段を写しているなど、また重要なガジェットとして登場するクルマの扱われ方など
キュアロン監督が無知なまま育ってきた負い目に対する彼なりの回答を明示しているといえるのだ。
だが、それらを振り返って理解できたのは私は評論家町山智浩氏やライムスター宇多丸氏による解説を
熟読しなければならなかったことを告白しなくてはならない。だから、私の評価の★8つは、そこまでしか
理解出来なかったため、と理解していただいたほうが良いと思う。

e0040938_16254663.jpg

●「撮影賞」としての本作・・・
モノクロだけど、撮影に使われたのはAlexa65というデジタルカメラで撮られた65ミリのワイド画面の
作品。キュアロン自身この映画を大画面、高音響の劇場での公開を想定に製作した。だが、地味な映画で
あることから、劇場で公開してもたくさんの人に見てもらえないかも知れない、と思っていた所、Netflix
との思惑に重なり、配信という形になった。今回私が観た画面も横長の大画面で、キュアロン自身が
撮影監督をした画面は、計算されつくしていて、私のようなものでも見ていて美しいし、分かりやすかった。
基本は脚付きの水平のパーンと若干のチルトアップ、しかも極めてゆっくりした速度。ズームは使われない。
また横移動はレールを使ったもので、キュアロン独特の長回し。ところが暴動シーンとラストの海のシーンは
一転して動きが激しい。だからこの2つのシークエンスは非常に印象深く残るように出来ている。
また、冒頭のタイルを水で掃除するシーン、溜まった水に映る上空のジェット機。これはラストシーンへと
繋がっていく。つまり硬質な画面の中に柔らかい感情を埋め込むそのテクニックには唸らせれた。これは
私でも分かる本作の映画の優れた点だ。

●「外国語映画賞」としての本作・・・
日本から是枝裕和監督の「万引き家族」がカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞を引っさげてノミネート。
一方、キュアロン監督の本作はフランスの映画館での上映実績がないのでカンヌを閉め出されたという経緯を
持つ。
本作は全編スペイン語で、一部には先住民の言葉が使われている。家政婦同士での会話はこの先住民族の
言葉で、日本では<>で字幕表記されている。是枝監督以外の作品を見ていないので、この部門における
本作の評価はあれこれ言えないが、事前のオスカー登竜門と言われている映画賞の受賞経緯からすると順当な
評価といえよう。

●「監督賞」としての本作・・・
キュアロン監督は、本作でのキャスティングをすべてメキシコ人で行っている。特に主演のクレオを演じて
いきなり主演女優賞にノミネートされたアパリシオさんは、全くの素人。キュアロン家にいた実際の家政婦
さんに似ていたことと、先住民の言葉を少し理解出来たことから選ばれたという。さらに、病院などは本物の
医師や看護師を使い、リアリティを創出している。また事前に台本を渡さず、シーンごとにセリフを割り振り、
自分の役が全体の中でどういう立ち位置にいる、どういう性格で役割を持った人なのかを学習しながら演出
していったという。素人を使うことに対する気の使いようでもあろう。
脚本を書き、キャメラを覗きつつ撮影し、編集まで手がけているわけだから、もう完全なるキュアロンワールド
である。「ゼロ・グラビティ」でキュアロンファンになったニワカにとっては、戸惑うものではあったのだが、
思いに通底している部分は本作でも同様なのであろう。

●Netflix配信ということ・・・
キュアロン監督は結果としてNetflixを選んだわけだが、PCやタブレットという小さい画面で見たり、途中で
止めたり、スマホを見ながら観たりする観られ方は監督の本意ではあるまい。今回持ち上がった配信会社VS
従来型配給会社のにらみ合いに対し、キュアロン監督は「私は映画館で観る映画を心から愛しているが、多様性
も認められていいのではないか」と語る。Netflix自身は、広大なアメリカにおいて、物理的に映画館に行けない
人(遠いとか体に障害があるとか)、仕事の関係で映画館に足を運ぶことがなかなか困難な人、など広い人たちに
映画を楽しんでもらえる機会を提供したい、と語る。確かにそのとおりであろうが、私見として、今回映画館で
本作を観た限りにおいては、やはり暗く集中出来大画面と高音質な環境で観る本作は、スマホ画面で観るものとは
かなりの部分で異なるのではないか、と感じたのだった。

長文になったのでストーリーなどは下記リンクを参考にして下さい。

<IMDb=★7.8>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:96% Audience Score:71%>
<KINENOTE=80.7点>



by jazzyoba0083 | 2019-03-11 13:10 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「ルージュの手紙 Sage Femme (The Midwife)」
2017 フランス Curiosa Films. 117min.
監督・脚本:マルタン・プロヴォ
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、カトリーヌ・フロ、オリヴィエ・グルメ、カンタン・ドルメール、ミレーヌ・ドモンジョ他

e0040938_13554721.jpg
<評価:★★★★★★★☆☆☆+α>
<感想>
邦題は、確かにそのとおりのものが出てくるので不正解ではないが、描かれる世界は結構シリアスなものだ。
フランス2大女優のぶつかり合いが見ものであることは確か。特にフロの演技が素晴らしいと感じた。

直前に雑誌のコラムのために「愛と追憶の日々」という母娘の話を観て、あれはあれなりに、感じるところの
ある映画だったが、こちらはいかにもフランス風のドロドロな感じのする母娘(実際は継母だが)の人間性が
擦れあって火花が散るような物語に仕上がっている。

フロが演じるのは女手ひとつで男の子(もう大学生で親元を離れている)を育てた、助産師のクレール。
夜勤もあれば出産は時間を問わないので、もう結構な歳のクレールにはタフな仕事になりつつある。
彼女の生活は禁欲的で規則正しい。その病院ももうすぐ閉院となるという。彼女なりのサイクルで回って
いた生活に飛び込んできたのが、義理の母ベアトリス(ドヌーブ)。クレールが若い頃にベアトリスは
出奔してしまい、水泳の選手だった父は、銃で自殺してしまう。クレールはこの継母を嫌っていたのだ。
だが、ベアトリスはクレールの居所を突き止め、転がり込んでくる。脳腫瘍を患っていて弱気になっている。
しかし、彼女はタバコを吸い、ワインをがぶ飲みし、ギャンブルに目がない。わがままで自分勝手な女だ。
そして別れた夫が自殺をしたと聞いて、自分の罪を思う。

性格も考え方も真逆の親子がどうやって暮らしていくのか。クレールには自分の隣の家庭菜園を持つ国際
トラック運転手ポール(ハゲの中年オヤジだが、なかなかいいヤツ。この男の存在で映画に広がりが
出ていると感じた)と次第に心を通わせるようになる。

自分の家にベアトリスを引き取ったクレールは、同時にポールとの関係も深まり始め、なかなか難しい
立場に立ったが、ポールはつかずは離れずでクレールを見つめる。ベアトリスは頭に穴を開け腫瘍を
摘出する手術を受けるが、結果はあまり良くなかった。だが退院して、再びクレールの家で生活を
始める。死期を悟ったベアトリスはクレールと色んな所に出かける。ある日、一通の手紙を残して
ベアトリスはクレールの元を去る。 クレールは病院が閉院になったことから自分で助産の学校を
開こうと決意する。ラストシークエンス、農園に来た手紙の中にベアトリスからのものがあった。
中には唇の形を捺したルージュと、形見の指輪が入っていた。そして傍らを流れるセーヌのボート
置き場にあった半ば沈みそうだったボートがほとんど沈んで下流に流されていくのが見えた。

30年も前に娘と夫の元を去った継母とそれを許さない娘の若いのストーリー。次第に心が溶け合って
行く様子をみるのは気持ちいい。決して直線的な解決ではないけれど、それがあるから映画になって
いるわけで・・・。娘を演じたカトリーヌ・フロが圧倒的に良かった。確執を抱えながら継母の変化を
読み取り、これに沿い、見つめていき、自らも変わっていく様子がよく演技されていた。演出も
よかったのだろう。同じ母娘モノでもハリウッドと欧州では、テイストが随分変わるものだなあ
(全てではないけど)と思ったのだった。

e0040938_13555828.jpg
<ストーリー>
フランスを代表する女優カトリーヌ・ドヌーヴとカトリーヌ・フロが対照的な義理の母娘を演じる
人生ドラマ。助産師の生真面目な中年女性が、30年ぶりに現われた継母に戸惑いつつも、過去のわだかまりを
乗り越え、彼女の自由奔放な生き方も少しずつ受け入れていくさまを、ユーモアを織り交ぜつつほろ苦くも
心温まるタッチで綴る。
共演にオリヴィエ・グルメ。監督は「セラフィーヌの庭」「ヴィオレット ある作家の肖像」の
マルタン・プロヴォ。
 
助産師として働くクレール。真面目すぎる彼女は子育てを終えた今も、堅実で禁欲的な日々を送っていた。
そんな彼女の前に、30年前に突然姿を消した継母のベアトリスがいきなり現われる。酒とギャンブルが大好きで
自分勝手に生きてきた彼女だったが、癌になったことで、生涯で唯一愛した男性にもう一度会いたいと戻って
きたのだった。
しかし当のクレールの父は、ベアトリスが理由も告げずに去った直後に自殺していた。父と自分を捨てた憎む
べき存在のベアトリスとの思いがけない再会に、戸惑いと苛立ちを隠せないクレールだったが…。(allcinema)

<IMDb=★6.8>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:89% Audience Score:79%>
<KINENOTE=72.8点>




by jazzyoba0083 | 2019-02-22 22:50 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「掠奪された七人の花嫁 Seven Brides for Seven Brothers」(名画再見シリーズ)
1954 アメリカ MGM 102min.
監督:スタンリー・ドーネン
出演者:ハワード・キール、ジェーン・パウエル、ラス・タンブリン、トミー・ロール、ジェフ・リチャーズ他

e0040938_16583812.jpg
<評価:★★★★★★★★★☆+α>
<感想>
毎月木曜は3月まで市の映画鑑賞会で、MGMのミュージカルを上映してくれている。タダで。大画面で観る
傑作ミュージカルは、流石にいいなあ。本作はDVDを持ってはいるけど、大画面で楽しみたくて午前の回に
でかけた。同好の士で満席。まあ平日の午前中だから敬老会みたいな感じだけれど。ww

さて、本作はMGMミュージカルの4作目。監督はMGMにこの人あり、スタンリー・ドーネン。「雨に唄えば」
に続く作品だ。この映画の最大の見所は、村の祭のシーンのダンスだ。男女14人以上がもつれ、揃い、見事な
ダンスを披露する。コレオグラファーはブロードウェイを代表する名人マイケル・キッド。8曲の歌は、この
時期のミュージカル映画では本作のみの登場となるジーン・デ・ポール。末っ子を演じたラス・タンブリンは
後に「ウェストサイド物語」でジェット団のリーダー、リフを演じることになる。85歳となった今もご健在だ。

さて、この映画はテクニカラーではなく、アンスコカラー。どういうイキサツか、寡聞にして知らないが、
アンスコで撮られた映画は数少ないと思う。透明感のあるカラーだというが、保存ということでいうと
テクニカラーには敵わず、今我々が観るDVDは上映当時の色ではないし、上映当時から発色やシャープネスに
問題はあったようだ。

閑話休題。物語はプルタークが書いた古代ローマ人のサバイン婦人誘拐の故事に取材したスティーヴン・ペネの
「すすり泣く女たち」に依っているが、オレゴン山中の出来事としてブロードウェイミュージカルに翻案した
のも凄いけど、歌と踊りを配した脚色にした(オスカー脚色賞受賞)アルバート・ハケットらの脚色チームの
筆力がものを言っている。

作中、8曲を提供しているジーン・デ・ポールも日本ではあまり知られていないが、バイオグラフィーを見ると
本作が人生の最大の仕事だったようだ。ジャズファンにはおなじみスタンダード「I'll Remember April(四月の
思い出)」=アボット/コステロ主演の人気コメディ映画凸凹シリーズの一編『凸凹カウボーイの巻』
(1942年製作:原題:Ride 'em Cowboy)挿入歌の作曲者、といえばピンと来るかも知れない。
彼の本作の仕事は素晴らしい。

物語、音楽、ダンス、三拍子揃って(せっかくのシネマスコープなのでこれでテクニカラーだったら言うこと
ないのだが)、楽しい至福のときが過ごせる。今から65年も前の作品とは到底思えない質の高さだ。
全部セット、というのが当時らしいダイナミックさだ。ストーリーにツッコミを入れるなどは野暮の骨頂。

e0040938_16584651.jpg
<ストーリー:結末まで書かれています>
1850年のお話。アダム・ポンティピー(ハワード・キール)はオレゴンの山奥から町へ出てきた。
そして首尾よく料理店の女ミリー(ジェーン・パウエル)を口説き落として山の農場へ連れ帰った。
アダムのうまい口説を本気にして来たミリーは、総勢7名の荒々しいポンティピー兄弟に会い、散らかし放題の
家の中を見てすっかり幻滅の悲哀を感じてしまったが、すぐ気をとりなおしてかいがいしく働き出したから、
さすがの兄弟たちも身なりをさっぱりと改め、新しい生活にのりだした。

ある日、ミリーが弟たちと一緒に町へ買物に出たところ、彼らは町の娘に手を出してボーイ・フレンドと
喧嘩をひき起こす始末。これではならぬとミリーは弟たちに女性と交際するエチケットを教え、どうやら1人前に
して6人の弟たちを町へ連れ出した。1人1人相手を得て、至極神妙にやっていたうちはよかったが、町の男が
誤ってアダムの頭へ厚板を落としたのがきっかけとなって、おさえられていた血気が一挙に爆発し、大乱闘を
展開した。そんなことで折角のロマンスへのチャンスを失った兄弟は、冬を迎えて憂鬱な日を送っていたが、
それを見たアダムは、古代ローマ人は町を襲って各々結婚相手をさらって来たと智恵をつけてやった。

間もなく兄弟の駆る4頭立ての馬車が町を襲い、娘たちをさらっていった。町人が後を追って彼らに迫ったとき、
その間に雪崩が突発してポンティピー農場への1本道は春の雪どけまで断たれてしまった。ミリーはこの野蛮な
行為に憤慨して男たちを納屋へ追いやり、娘たちは自分と一緒に母屋においた。

ミリーの厳重な監視の下に、若者たちは、いや娘たちもうつうつと一冬を過ごした。春が来て雪がとけると、
早速町の人たちが武器をもって娘たちを取り返しにやって来たが、なんと娘たちは兄弟と手をとりあって町人に
反抗する。折もおり、ミリーに第1子が誕生し、やがて、押しよせた町びとたちを立会人に、6組の結婚式が
賑やかにとり行われたのだった。(Movie Walker)

<IMDb=★7.4>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:88% Audience Score:87%>




by jazzyoba0083 | 2019-02-14 11:45 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「ワーキング・ガール Working Girl」
1988 アメリカ 20th Century Fox 113min.
監督:マイク・ニコルズ  音楽:カーリー・サイモン
出演:メラニー・グリフィス、シガーニー・ウィーヴァー、ハリソン・フォード、アレック・ボールドウィン
   ジョーン・キューザック、フィリップ・ボスコ、ノーラ・ダン、ケヴィン・スペイシー他

e0040938_14574542.jpg
<評価:★★★★★★★☆☆☆+α>
<感想>
時代の雰囲気が横溢した映画だ。風俗を保存するという意味でもこの映画は貴重な存在。日本で
「私をスキーに連れてって」が製作されたのが1987年だから、まさにバブルに世界中が浮かれ気分だった
時代だ。本作に出演している女性陣のファッション、ヘアスタイル、メイク、まさに80年代のタイム
カプセルのようだ。ヤッピーということばが出てきて、ビジネス街に通う女性はスニーカーで出勤し
会社でヒールに履き替える、という風習がまさに本作でも使われている。

80年代の風俗なタイムカプセルと言えば我が国では「わたスキ」がそうであった。しかし「わたスキ」が
心底お気楽映画だったのに比べ、本作はアメリカで女性が社会に進出しはじめた頃のビジネス界の感じを、
女性をどう捉えていたかも含め見て取ることが出来、同じ時代を切り取る映画でも「上昇志向の女性」の
姿を勧善懲悪の世界で(カタルシスは平凡だが)描いているところに違いがある。

8年前の1980年には、こちらも主題歌が大ヒットした「9時から5時まで」という、働く女性を描いた
ブラックコメディがあったが、その当時と比べると、上司が女性というところからして違うし、女性が
オフィスで働く、ということの真剣さの捉え方に時代を感じる。

当時バブルで金満日本によるアメリカ企業の買収が盛んだった時代で、本作でも舞台となる証券会社の
M&A部門では日本企業による買収がさかんに話題になっている。そのような背景も含め80年台を記録
した作品である。NYにはWTCがそびえているのは当然である。

「こんな、映画のようなことがあるもんか」というセリフは映画の中でも良く使われるのだが、本作は実際
そんな感じ。ありえないシンデレラストーリーで、まあ悪く言えば「ご都合主義」なのだが、頑張った
(当時は地位が低い)女性が(ありえない)成功を手にするという、まあ観ている女性陣からすれば
スカッとする(逆に今見ると、世の中こんなに上手くいかないよ、と思われるだろうが)仕上がりになって
いる。

とにかく80年代の時代感横溢なのである。メラニー・グリフィスの役柄は少し前ならマリリン・モンローが
やったような少し頭のネジが緩いような風貌、しゃべりなのだが、彼女の違うのは(外見とは違いww)
頭がよく、アイデアウーマンだということだ。しかし5年掛けて夜学の大学を出ても、新卒で大学を出てくる
女性には敵わない。そんな同い年の上司をシガーニー・ウィーヴァーが演じる。どなたかも書かれているが
もっと意地悪く描いても良かったんじゃないかな。それにしても本作の中ではピカイチの存在感と演技。
いわゆる憎まれ役である。だが、メラニーはシガーニーの言葉(生きていく上での)にインスパイアされる
(シンプルなファッションも)のだ。だが、シガーニーのほうが上昇志向が強すぎで、信頼を裏切るという
汚い手を使うのだ。まあ、メラニーの方も、体当たりとはいえ余り褒められた行動をとるわけでもないの
だが・・・。メラニーは髪の毛を切ると風貌も切れ者風に変わるのだが、主人公がメラニーという配役で
本当に良かったのかどうかは評価が分かれるところだろう。

シガーニーの恋人で、最後にはメラニーに取られてしまうハリソン・フォードは、「スター・ウォーズ」
「インディ・ジョーンズ」シリーズで油が乗り始めてきた頃。「何を演じてもハリソン・フォード」と
悪口を言われるが、まあここでもそんな三枚目的な役柄で、最後に美味しいところを持っていく。役柄に
合っていたキャスティングだと思う。

全体の作劇は、名匠マイク・ニコルズらしく見せ場をつくりきちんと纏めている。楽しい映画に仕上がって
いることは間違いない。またオスカーを獲ったカーリー・サイモンによる主題歌、また名手ミヒャエル・
バウハウスによる冒頭の自由の女神の空撮を始めとし、エンディングのビルの一部屋からの引きの画といい
映像もここちよく仕上がっている。

e0040938_14575444.jpg
<ストーリー>
ニューヨークのマーシュ証券会社で秘書として働くテス・マクギル(メラニー・グリフィス)は、頭が
切れるものの学歴不足が原因で証券マン養成コースからはずされ、おまけに好色な上司をポン引き呼ば
わりしてしまい、ボストンから転勤してきた女性重役キャサリン・パーカー(シガニィー・ウィーヴァー)
の秘書に配置変えされてしまう。洗練されたキャサリンに圧倒されるテスであったが、トラスク産業の
ラジオ局買収の情報を提供し、成功したら養成コースに入れて欲しいと彼女に頼む。

恋人との結婚でうきうきするキャサリンであったが休暇を過ごしたスキー場で足を骨折、回復までの間、
すべてを任されたテスは、彼女のパソコンの中の「トラスクの件はテスを通さぬ事」という一節を読み
ショックをうける。さらに彼女は恋人ミック(アレック・ボールドウィン)の他の女との情事の現場を
目撃してしまい、怒り心頭、そしてワープロの中にあったジャック・トレイナーという男を訪ね彼の
主宰するパーティにもぐり込むが、そこでダンディな紳士(ハリソン・フォード)に誘われ飲んでゆく
うちに酔いつぶれ、彼のマンションに泊まってしまう。

翌朝、ジャックの勤めるデューイ社を訪れたテスは、昨夜の紳士こそ彼であることを知り驚くが、
ジャックはトラスク社のラジオ局買収に乗り気で、トラスク社長(フィリップ・ボスコ)の娘の
結婚式にふたりしてもぐり込み社長に接近、彼に気に入られたテスは合併問題で会ってもらえる
約束をとりつける。この仕事を通してジャックはテスが気に入り、恋人との婚約を取り消すと言い
出すが、その恋人こそキャサリンだった。

そして彼女の退院の日、トラスク産業の重役会議出席のためキャサリンを巻いてテスとジャックは
会場にすべり込むが、キャサリンは彼女の部屋に忘れたテスのスケジュール帳を盗み読み、
事の成り行きを知る。そして契約調印の直前、キャサリンが、「テスはアイデアを盗んだ秘書」と
言ってどなり込み、話は一時延期される。窮地に立たされたテスであったが、後日エレベーターで
出会ったトラスク社長が真相を知るや、逆に彼女の着眼点の良さ、行動力が評価され、改めて
合併に調印、そしてキャサリンはクビ、トラスク産業の重役に引き抜かれたテスは、ジャックとの
愛も手に入れるのだった。(Movie Walker)

<IMDb=★6.8>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:85% Audience Score:67% >
<KINENOTE=70.2点>





by jazzyoba0083 | 2018-12-17 23:05 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「ラブ・アクチュアリー Love Actually (名画再見シリーズ)」
2003 イギリス・アメリカ Universal Pictures (presents),StudioCanal (presents) ,Working Title Films. 135min.
監督・脚本:リチャード・カーチス
出演:ヒュー・グラント、リーアム・ニーソン、エマ・トンプソン、アラン・リックマン、コリン・ファース、ローラ・リニー
   キーラ・ナイトレイ、ローワン・アトキンソン、ビル・ナイ、キウェテル・イジョフォー、ジョアンナ・ペイジ他
e0040938_15212716.jpg
<評価:★★★★★★★★★☆>
<感想>
本作について原稿を書く必要があり、Blue-rayを買って再見。
初見の時の感想は以下のリンクにて。2006年に観ているのだな。今回まるで新作を観るような新鮮さで味わうことが
出来た。あれから13年も経っているのだから。

脚本も書いてメガフォンを取ったリチャード・カーチスには「アバウト・タイム~愛おしい時間について」という
贔屓にしている作品もある。もともと「Mr.ビーン」のTVシリーズっで名前を上げ、映画でも彼とまた、
ヒュー・グラントの作品を手がける事が多い。直近では「マンマ・ミーア/ヒア・ウィ・ゴー」の原案、製作総指揮を
務めるなど、フィルモグラフィーを観ても、コメディタッチのヒューマン・ドラマの作劇に上手さがある人だ。

本作はクリスマスの時期を上手く物語に取り入れ、その中で繰り広げられる19人9組の「愛」について描いていく。
ばらばらに語られていたそれぞれの「愛情」の物語は、やがて一つの場所に収斂していく。アルトマンの群像劇の
ような手法だ。しかしこれだけの登場人物をよくつなぎ合わせて物語を紡いだものだ。その辺りの労苦が映画の
面白さに報われている。クリスマスの5週間前から1週間づつ区切ったのが分かり易さに繋がった感じだ。

しかし、この映画を観て、悪く言う人がいるだろうか。いや、「生ぬるい」という批評もあろう。が、「性善説」に
基づくリチャード・カーチスの作劇は、「愛情にまつわる人の悩み、そして優しさ、勇気、理解、赦し」それぞれに
優しい目線と(画作りも含め)イギリスらしいユーモアを加え、暖かく、暖かく描いていていく

ラスト近くには、観ている人の多くは涙せずにはいられないだろう。基本的には「成就する」愛を描くので、先程も
書いたように「生ぬるい」と感じる方もいるだろう。それはそれでいいと思う。が、私は過去の評価より今回観た
ことで、この映画の評価を上げたのだった。製作された時すら、白人と黒人、人種、ゲイ、いじめ、働く女性など
今に通じるテーマを、硬い言葉で言ってしまえば「平等な自由と人権」を平易な物語にしたリチャード・カーチスの
脚本を買いたい。9.11の直後だったから公開当時は余計にそう感じた人が多かっただろう。
(ヒュー・グラントの首相のチャラさは如何なものか、という感じもするが、権力者とて、愛は必要だ。それは
畢竟、政治の世界にも繋がっていくのだから)

製作された2003年は、アメリカの同時多発テロから2年というまだ生々しい時期。アメリカはイラクに侵攻を
始めていた。そういう時期に、空港が多くの出会い、愛の世界が繰り広げられる場所としてファーストシーンに
持ってくるのは勇気が必要だったろう。それは逆に憎しみ合いより「愛」こそは全て、という主張に違いないのだ。

出演陣はオールスターがずらりと並び、それぞれの演技についてはまったく問題はない。加えてポップな音楽の
使われ方がとても上手い。ジョニ・ミッチェルやベイ・シティー・ローラーズ、マライア・キャリー、ビートルズ
などの歌が効果的に使われる。

浮気、片思い、身分の違い、両想いの結婚、男同士の友情、最愛の人の喪失、そして子供ごころの「恋心」=この辺、
泣かせどころなんだろうなあ。こどもが出てくるとみんな持っていってしまうからずるいんだけど、個人的には
コリン・ファースがお手伝いさんをポルトガルまで追いかけて(ポルトガル語を勉強して)求婚するカップルが
ご贔屓だったかな。あ、キーラ・ナイトレイに片思いの男がイブにドアの前で紙を読み上げ告白し去るところの
シーンも良かったなあ。
「クリスマスくらい自分の正直な気持ちをブツケてみよう」。こういう気分って西欧にはあるんだね。それがまた
たくさんの映画の題材を提供しているんだけど。このあと書く「ダイ・ハード」(初作)もそうだった。

とにかくあまたあるラブコメ系のドラマでも、多くの人が「好き」と挙げる、観て損をしないではなく、誠に心が
暖かくなる観て得をする映画の最右翼ではないか。批評家は「詰め込みすぎ、表層的、甘すぎ」と辛口だが、
多くの大衆にはしっかり支持されている作品だ。原題はLove actually is all around.(愛はいたるところにある)
から取られた。
e0040938_15215760.jpg
<ストーリー>
 「ノッティングヒルの恋人」「ブリジット・ジョーンズの日記」の製作スタッフが、クリスマスを目前にした
ロンドンを舞台に、男女19人が織りなすさまざまな恋愛模様を同時進行で描く心暖まる群像ラブ・コメディ。
「ノッティング~」「ブリジット~」などの脚本を手掛けたリチャード・カーティスが本作では脚本のみならず
監督デビューも果たす。
ヒュー・グラント、リーアム・ニーソン、エマ・トンプソンをはじめ、新旧の人気英国人スターを中心に豪華共演。
 12月のロンドン。クリスマスを目前に控え、誰もが愛を求め、愛をカタチにしようと浮き足立つ季節。
新たに英国の首相となったデヴィッドは、国民の熱い期待とは裏腹に、ひと目惚れした秘書のナタリーのことで
頭がいっぱい。一方街では、最愛の妻を亡くした男が、初恋が原因とも知らず元気をなくした義理の息子に気を揉み、
恋人に裏切られ傷心の作家は言葉の通じないポルトガル人家政婦に恋をしてしまい、夫の不審な行動に妻の疑惑が
芽生え、内気なOLの2年7ヵ月の片想いは新たな展開を迎えようとしていた…。(allcinema)

<IMDb=★7.6>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:63% Audience Score: 72%>
<KINENOTE=79.7点>



by jazzyoba0083 | 2018-09-22 22:50 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「ワンダー 君は太陽 Wonder」
2017 アメリカ Lionsgate,Mandeville Films,Participant Media,Walden Media.113min.
監督・(共同)脚本:スティーヴン・チョボスキー  原作:R・J・パラシオ著『ワンダー』
出演:ジェイコブ・トレンブレイ、ジュリア・ロバーツ、オーウェン・ウィルソン、イザベラ・ヴィドヴィッチ他
e0040938_20351931.jpg
<評価:★★★★★★★★☆☆-α>
<感想>
感動が胸にこみ上げる、ハートウォーミングな一編。この映画を悪く言う人はいないでしょう。原作モノだが、
映像が持つ強みを十分に発揮し、四季やハロゥイン、クリスマス、サマーキャンプ、修了式などのイベントも
上手にエピソードに取り込み、チャプターの作り方なども上手く工夫されている。
(はじめの数章は登場人物の名前を表記して、その人の目線で物語られる。まま使われる手ではあるが)

障害を持った少年の勇気、弟が家族の中心となり家庭が「息子=サン=「太陽」=邦題の所以=を回る惑星の
よう」で、ママやパパを弟に取られちゃってるよ、と心では思うけど、心底弟思いの姉、そして理解ある両親。
勇気を持って通い始めた学校の校長、先生、理解ある友人、いじめっ子たちも最後にはハイファイブをするように
なる事態。基本的に悪い人が出てこない。設定が「出来過ぎ」の感がある。そこがマイナスアルファの要素だ。

確かに主人公のオギー少年はマイノリティ中のマイノリティの存在だろうが、ここまで恵まれていたのは幸いと
言わねばなるまい。加えて10歳の少年にしては達観した感じがちょっと引っかかるものを感じた。優秀だし。

しかしそうした映画の出来を裏側から見ると、こんなストレートな「良い」映画が作られ、それが「良い」と評価
されるほどアメリカを中心とした世界が、実際はその逆にある、ということを製作者はいいたかったのではないか。
トランプに見せたい映画であるなあ、と思えるように、世界を覆う「ヘテロ(異質)なものに対する不寛容」に
対する回答なのではないか。

校長先生が、オギーをいじめた子に言う「見た目は変えられない。ならば私たちが変わらなくては」と。まさに。
オギーは「スターウォーズ」が大好きなのだが、前身毛むくじゃらのハン・ソロの盟友であるチューバッカの
存在を心の支えとしている部分がある。(映像にもメタファーとして本物が出てくる)まさに「スターウォーズ」に
代表される宇宙時代には、誰がどういう容姿で、何語を話すか、などは関係ないのだ。オギーが宇宙に憧れるのは
そのあたりのメタファーである。

ジュリア・ロバーツの存在感の強みはさて置くとしても、子役たちの芝居が上手い。彼らの上手さがなければ
この映画からここまで感動を受け取れなかったのではないか。ただ、取ってつけたようなカタルシス的な
イジメっ子のボスとその両親と校長の掛け合いは私は不必要ではなかったか、と感じた。

「子どもは強いなあ」「とはいうもののそれを支える親を始めとした大人の存在(影響)は大きいなあ」
「自分は他人にはなれないのだなあ」「誰でもその人しかない価値を持っているのだなあ」などということを
考えながら観ていた。全編を流れるメンタリティーはアメリカだなあ、と思う。日本で作ると「万引き家族」の
ようなメンタリティになるんじゃなかろうか。

「出来過ぎ」と腐しはしたが、原作モノとはいえ、ストーリーの構成はユニークで面白く、重くない出来の割に
考えさせる点も多い佳作であることは確かだ。日本ならさしあたり「文部省特選」(今はないけど)という映画。
「心洗われたい」「温かい涙をたくさん流したい」「心が暖かくなりたい」という人がいたら必見ではないだろうか?

原題の「wonder」については母のジュリア・ロバーツがオギーに掛ける言葉「あなたは"奇跡"」として使われて
いるが、この言葉を英和辞典で引くとこの映画にフィットする実にいろんな意味が出ている。一度調べてみては?
e0040938_20362854.jpg
<ストーリー>
全世界で800万部を超えるベストセラーとなったR・J・パラシオの小説を、『ウォールフラワー』のスティーヴン・
チョボスキー監督が映画化した人間ドラマ。
遺伝子の疾患で人とは異なる顔で生まれた少年が、両親の決断で小学5年生で初めて学校へ通い、さまざまな困難に
立ち向かいながらも成長していく姿がつづられる。

10歳のオギー・プルマン(ジェイコブ・トレンブレイ)は、「スター・ウォーズ」が大好きで、宇宙飛行士に
憧れる男の子。だが彼は、普通の子とは少し違う見た目をしていた。遺伝子の疾患で、他の人とは異なる顔で生まれて
きたのだ。そのため、27回もの手術を受け、一度も学校に通わないまま自宅学習を続けてきた。

ところが、母親のイザベル(ジュリア・ロバーツ)は、“まだ早い”という夫のネート(オーウェン・ウィルソン)の
反対を押し切って、オギーを5年生の初日から学校に通わせることを決意する。
夏休みの間、イザベルに連れられて校長先生に会いに行くオギー。トゥシュマン校長先生(マンディ・パティンキン)の
“おケツ校長だ”という自己紹介に、オギーの緊張はややほぐれる。
だが、“生徒が学校を案内する”と聞き、動揺。 紹介されたのは、ジャック・ウィル(ノア・ジュプ)、ジュリアン
(ブライス・カイザー)、シャーロット(エル・マッキノン)の3人。いかにもお金持ちのジュリアンは、“その顔は?”と
聞いてくる。毅然とした態度を取るオギーだったが、帰宅後は元気がない。イヤならやめてもいいと言いかけるイザベルに、
“大丈夫、僕は行きたい”と答え、学校に通い始めるが……。(Movie Walker)

<IMDb=8.0>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:85% Audience Score:88% >






by jazzyoba0083 | 2018-06-27 16:20 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「ラビング 愛という名前のふたり  Loving」
2016 アメリカ Raindog Films,Big Beach Films. 123min.
監督・脚本:ジェフ・ニコルズ
出演:ジョエル・エドガートン、ルース・ネッガ、マートン・ソーカス、ニック・クロール、マイケル・シャノン他
e0040938_15393901.jpg
<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>
何の前知識もなく観始めたのだが、本作はアメリカにおける異人種間結婚禁止を打ち破った画期的歴史的出来事に
基づいていた。ネットでいろいろとこの事件に関して調べてみたのだが、本作は事実にかなり忠実に再現されている
そうだ。連邦最高裁でヴァージニア州の州最高裁判所判決が覆った1967年6月12日を記念して毎年この日は
「ラヴィング・デイ」として祝われているという。

本作では、画期的判決を導き出した夫妻について描くのだが、一発の銃声もなく、投石もなく、割れるガラスの
音もせず、黒人を警棒で殴る白人警官も出てこず、ましてやKKKも出てこず、黒人を眼前で面罵する白人も出て
来ない。こうした黒人の人権開放映画はたくさんあるが、ここまで静かな映画はまれというか私個人は初めて観た
と思う。
音楽も含め、静かな物語の流れは、「愛し合う二人が家族とともに故郷で静かに暮らせること」という
たったそれだけのことを欲していた二人が、裁判という流れの中でも、その静謐さを守り続け、勝利しても英雄視
されることを好まず、「普通の暮らしがしたいだけ」という姿勢を貫く。その事が逆に、当時のアメリカ(南部)の
黒人たちの置かれた逆境を浮き彫りにし、今では当たり前であったことが、そうではなかった時代の苦悩を
あぶり出す。
特に物静かなリチャードは、声高に人種差別撤廃を叫ぶでもなく、ひたすら愛するミルドレッドと家族を守りたい
静かに一緒に暮らしたいと願うのみ。その考えや行動は映画を観ている人の胸を打つ。ひとりごとで「おかしい」
「それはおかしい」とつぶやくのみ。無鉄砲な行動には決して出ない。だから強い反体制派とも見なされない。
むしろ裁判に積極的だったのはミルドレッドの方だった。彼女とて団体に所属するとかデモをするとかオルグを
かけるとかは全くぜず、個人の問題としての裁判へと進んでいくのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
白人であるリチャード(エドガートン)と黒人とネイティブアメリカンなどの混血ミルドレッド(ネッガ)は、
若い頃から恋愛関係にあり、周囲も認めるところであった。特にリチャードは黒人の友人を多数持ち、その事を
ごくごく当たり前の日常として生活していた。ミルドレッドが妊娠したことから、リチャードは結婚を決意、
1エーカーの土地を買い、そこでプロポーズした。
ヴァージニアでは異人種間の結婚が禁止されていたため、周囲は同棲でもいいじゃないか、と諌めるが、二人の
意志は固く、二人でワシントンDCに行き、ミルドレッドの父のみ参加しての式を挙げ、結婚証明書を貰って、
ヴァージニアに帰り、ミルドレッドの家で暮らし始めた。

しかし、二人が結婚して暮らし始めているという噂が警察の耳に入り、ある日保安官が寝込みを襲う。二人は
別々に収監されてしまう。白人であるリチャードは早々に釈放されるが、ミルドレッドは父が保釈金を積んで
やっと開放された。依頼した弁護士が判事と取引し、有罪を認めれば懲役1年に執行猶予をつけてやる、ただし、
25年間は州外に退去すること、という条件が付けられた。若い二人は故郷を離れ、DCの知り合いの家に
転げ込み、そこで生活することになる。

だが、ミルドレッドの、義母の家で産みたいという、たっての願いで、二人は別々に決死の思いでヴァージニアの
リチャードの家に帰る。無事にシドニーという男の子が産まれたが、どこからか噂を聞きつけた保安官がまた
やってきて、二人を逮捕する。州内に戻ったことで裁判となったが、弁護士が「私が、出産時には一時帰ることが
出来る、という勘違いの情報を教えたことが間違いだった。ミスだった。判事殿、申し訳ない」とその場を
取り繕い、なんとか難を逃れることが出来た。

DCに帰った二人にはその後3人の子どもが出来、リチャードは腕のいい左官工として真面目に働き家族を守って
いた。しかし特にミルドレッドはすさんだ黒人街のDCでは満足に子育ても出来ないと悩んだ。ある日、子供の
一人が遊んでいて車にハネられるという事故があり、幸い大事には至らなかったが、ミルドレッドは姉の
アドバイスも有り(姉は1963年のワシントン大行進の光景をテレビで観て、そう言った)当時のロバート・
ケネディ司法長官に、自分たちの置かれた境遇の理不尽さを訴える手紙を書いてみた。それがケネディの目に
止まり、長官は手紙をアメリカ自由人権協会(ACLU)という団体に渡し、そこのボランティア弁護士コーエンから
ミルドレッドに電話が掛かってくる。そこからラビング夫妻の長い裁判の時間が経過するのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
e0040938_15402954.jpg
当時、キング牧師らの公民権運動はピークに差し掛かっていて、ACLUも連邦最高裁で黒人の人権を差別する
法律を撤廃させるための裁判材料を探していた。このことは別の映画でも観た記憶がある。
彼ら人権派弁護士らは、二人が受けている刑罰についての違法性をなんとか連邦最高裁に判断させようと
リチャードとミルドレッドと話し合いをする。まずは郡の判事に訴え、却下されたら州最高裁へ上訴、そこでも
負けるだろうから、そうすれば連邦最高裁へ上告出来る、と。当時ケネディ政権下の最高裁判事はおそらく
リベラル派で固められていただろうから、人権派弁護士としても、ヴァージニア州の「異人種間結婚禁止法」が
合衆国憲法に違反しているという判決を勝ち取りたかったのだ。

そして冒頭にも書いたとおり1967年6月12日、連邦最高裁はヴァージニア州最高裁が出したラビング夫妻への
有罪判決を取り消す判決を判事全員一致の意見として出した。二人は勝ったのだ。マスコミは殺到するが、
二人は、田舎で静かに暮らすのみ。やっと愛する二人と家族が一緒に暮らせる日が来たのだ。二人が望んで
いたのはそのことだけだったのだから。

この時点までで南部を中心に異人種間の結婚を禁止する州はまだ結構存在した。が、この判断で、連邦レベルで
そうした法律が無効となったのだ。思えばつい最近のことだ。
神は白人、黒人、黄色人、マレー人、赤色人に分け、それぞれの大陸に住まわせた。だから異人種が混交する
ことは神の摂理に反するのだ、という当時のヴァージア州などが規範としたキリスト教的倫理観はいまでも
アメリカに根強く存在する。私たちアジア人は人種である前に人間である、という大前提を割と簡単に理解出来
るが、キリスト教的な世界観の倫理観は私たちにはなかなか理解が難しいところがある。
アメリカでは現在ヒスパニック系が増え、アフリカ系、アジア系、らも増加し白人はマイノリティになりつつ
ある。そこらあたりにも強い白人の危機感がある。アメリカは白人の国でなければならないと。

ついこの前まで、普通に愛し合う二人が普通に暮らせない社会があった、ということを静かに訴えた本作、
当たり前の真実を曲げない信念を夫婦で分かち合っていたラビング夫妻の訴えは静かに、しかし多面的に
観る人の心を打ち、問題を投げかけてくるのである。
こうした映画は、次の場面で何かが起きる何かが起きるとドキドキするのだが、この映画はそういうことはない。
主演の二人の演出意図を踏まえた抑制の効いた演技は観るべきものが多かった。(ルース・ネッガは本作で
オスカー主演女優賞ノミネート)

ところで、裁判が進むに連れ、名前が知られ、夫妻の元に雑誌やテレビの取材が入るのだが、ライフ誌の記者を
演じたのがマイケル・シャノン。この人が出てくると、何かが起こりそうな予感がする。彼は夫妻一家と食事し
夜の団らんまで取材、「結婚という名の犯罪」という記事を書き、これがタイム誌に大きく掲載された。
どういう記事であったのか、読んでみたいものだ。

<IMDb=★7.0>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:90% Audience Score:76% >








by jazzyoba0083 | 2018-06-14 23:10 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「私はダニエル・ブレイク I,Daniel Blake」
2016 イギリス・フランス・ベルギー Sixteen Films,Why Not Productions,Wild Bunch,and more 100min.
監督:ケン・ローチ
出演:デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ、ディラン・フィリップ・マキアナン、ブリアナ・シャン他
e0040938_15475112.jpg

<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>
本作は2016年のカンヌ国際映画祭・パルム・ドール受賞作。イギリスの社会派監督ケン・ローチが二度目の同賞を
獲得したものだ。そして、今年のパルム・ドールが是枝裕和監督の「万引き家族」。なぜ二作を並列したか、というと
同じような内容を言わんとしているのだな、と感じたからだ。カンヌはこういう作風が好きなんだろう。以前感想を
書いた「たかが世界の終わり」が、本作と同年同時にパルム・ドールを獲っているから、極めて内省的だったり、社会を
告発するドラマとしての作りの良さなど評価軸になっているな、と思った次第だ。

「万引き家族」が極めて日本的な仕掛け(直接的告発をしない)で、社会が内在する「不寛容」や「機能不全」を指摘
していたのに比べ、本作「私はダニエル・ブレイク」は、ど直球で、イギリス社会のある側面を告発する。
「万引き家族」と似ていたな、と思われたのは、最後のシークエンスで問題点の明快な提示がなされるという手法。

是枝監督は「万引き家族」において、現代日本の『「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され
不可視の状態になっている人たち』の有様を突きつけることにより、観ている人に問題点を投げかける。
ケン・ローチの本作とアプローチは違えど、主張は通底している。是枝監督の『(前略)社会は排他的になり、
多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う』という文書に
触れるにつけ、その考えは確証へと変る。
2つの映画の根っこにあるものは「怒り」であり、ほとんど乱暴なくらいのエンディングはハッピーエンドではなく
鑑賞後の心には「重く」「切なく」「やりきれない」「怒り」が渦巻くのも共通だ。ただ、描き方がローチ監督の
本作の方が直截的で、是枝監督の作品は間接的、といえるだろう。

ダニエル・ブレイクはパソコンが使えない。しかし手当の申請はPCからしかできない。苦労しながらPCを学び
なんとかオンライン申請しようと苦闘するのだが、そのさまは、「自己責任」という便利な言葉で、社会的弱者を
疎外する現代社会の極めて深刻な問題のメタファーに他ならない。

本作では、イギリスの北にあるニューカッスルという街が舞台となり、心臓病を患い医師から就業を禁止されている
その道40年の大工であるダニエル・ブレイクが、職安で職につけない間の手当を、小役人の前例主義、ことなかれ
主義の前にたらい回しにあうさまを中心に、警察も含め、公権力という匿名性に守られ、結局税金で食っている役人
たち公僕が、公僕たる役目をなしてない実情を活写していく。
ダニエル・ブレイク本人の苦労と並走するように、彼の友人となるロンドンの施設から追いやられて来た幼い子供
二人を抱えたシングルマザー、ケイティの周辺も描くことにより、100分という決して長くない映画の中に、一般
市民が持つであろう社会の「理不尽」「融通・温情の無さ」「自分事と出来ない役人の冷たさ」を重層的に描いていく。

ケイティ一家とダニエルが「フードバンク」という貧しい人に食料や日用雑貨を提供する施設で、子どもに食事をさせる
ことを何日も優先してきたケイティが思わず棚の缶詰を開けて口に入れるというシーンが有る。ここはこの映画の中でも
極めて重いシーンだ。フードバンクのボランティアの親切な態度と役人らの冷徹さが自ずと浮かび上がらざるを得ない。

上記は観た人殆どが思うだろうが、イギリスのある町だけの話だけではなく、現在の日本でも、世界中で蔓延している
「不寛容」の実態だろう。本作にはいい人もたくさん出てくる。他人を心配する人も出てくる。だが、そうした個人の
善良さに寄りかかって、対応する福祉関係の税金を削りつづけることは許される社会ではないはずだ。
日本の役人にすべからく観ていただきたい作品だ。

本作のエンディングで亡くなってしまうダニエルの葬儀でケイティが、手当の不服申立のための書いた文章を読み上げる。

「私は依頼人でも、顧客でもユーザーでもない。怠け者でも たかり屋でも 物乞いでもない。国民保険番号でもなく、
エラー音でもない。きちんと税金を払ってきた。それを誇りに思っている。地位の高い者には媚びないが、隣人には手を
貸す。施しは要らない。私はダニエル・ブレイク。人間だ 犬ではない。当たり前の権利を要求する。敬意ある態度と
いうものを。私はダニエル・ブレイク 一人の市民だ。それ以上でもそれ以下でもない。」

さあ、これをどう受け止めるのか。
一旦引退を決意したローチ監督が、復帰してまで作らなければならなかった映画の重みが、ラストのダニエルの文章に
ある。

e0040938_15493854.jpg
<ストーリー>
社会派の名匠ケン・ローチ監督が、格差と分断が進む世の中で切り捨てられようとしている社会的弱者の心の叫びを
代弁し、カンヌ国際映画祭で「麦の穂をゆらす風」に続く2度目のパルム・ドールを受賞した感動のヒューマン・
ドラマ。実直に生きてきた大工職人が、病気をきっかけに理不尽な官僚的システムの犠牲となり、経済的・精神的に
追い詰められ、尊厳さえも奪われようとしていた時、同じように苦境に陥っていたシングルマザーとその子ども
たちと出会い、互いに助け合う中で次第に絆が芽生え、かすかな希望を取り戻していく姿を力強い筆致で描き出す。
主演はイギリスの人気コメディアンで、本作が初の映画出演となるデイヴ・ジョーンズ。

 イギリス北東部ニューカッスル。59歳のダニエル・ブレイクは、長年大工として働き、妻に先立たれた後も、
一人できちんとした生活を送り、真っ当な人生を歩んでいた。ところがある日、心臓病を患い、医者から仕事を
止められる。仕方なく国の援助を受けるべく手続きをしようとすると、頑迷なお役所仕事に次々と阻まれ、ひたすら
右往左往するハメに。すっかり途方に暮れてしまうダニエルだったが、そんな時、助けを求める若い女性に対する
職員の心ない対応を目の当たりにして、ついに彼の堪忍袋の緒が切れる。彼女は、幼い2人の子どもを抱えた
シングルマザーのケイティ。これをきっかけに、ケイティ親子との思いがけない交流が始まるダニエルだったが…。
(allcimena)

<IMDb=7.9>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:93% Audience Score:85% >



by jazzyoba0083 | 2018-06-13 23:30 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)