●「ワンダー 君は太陽 Wonder」
2017 アメリカ Lionsgate,Mandeville Films,Participant Media,Walden Media.113min.
監督・(共同)脚本:スティーヴン・チョボスキー  原作:R・J・パラシオ著『ワンダー』
出演:ジェイコブ・トレンブレイ、ジュリア・ロバーツ、オーウェン・ウィルソン、イザベラ・ヴィドヴィッチ他
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<評価:★★★★★★★★☆☆-α>
<感想>
感動が胸にこみ上げる、ハートウォーミングな一編。この映画を悪く言う人はいないでしょう。原作モノだが、
映像が持つ強みを十分に発揮し、四季やハロゥイン、クリスマス、サマーキャンプ、修了式などのイベントも
上手にエピソードに取り込み、チャプターの作り方なども上手く工夫されている。
(はじめの数章は登場人物の名前を表記して、その人の目線で物語られる。まま使われる手ではあるが)

障害を持った少年の勇気、弟が家族の中心となり家庭が「息子=サン=「太陽」=邦題の所以=を回る惑星の
よう」で、ママやパパを弟に取られちゃってるよ、と心では思うけど、心底弟思いの姉、そして理解ある両親。
勇気を持って通い始めた学校の校長、先生、理解ある友人、いじめっ子たちも最後にはハイファイブをするように
なる事態。基本的に悪い人が出てこない。設定が「出来過ぎ」の感がある。そこがマイナスアルファの要素だ。

確かに主人公のオギー少年はマイノリティ中のマイノリティの存在だろうが、ここまで恵まれていたのは幸いと
言わねばなるまい。加えて10歳の少年にしては達観した感じがちょっと引っかかるものを感じた。優秀だし。

しかしそうした映画の出来を裏側から見ると、こんなストレートな「良い」映画が作られ、それが「良い」と評価
されるほどアメリカを中心とした世界が、実際はその逆にある、ということを製作者はいいたかったのではないか。
トランプに見せたい映画であるなあ、と思えるように、世界を覆う「ヘテロ(異質)なものに対する不寛容」に
対する回答なのではないか。

校長先生が、オギーをいじめた子に言う「見た目は変えられない。ならば私たちが変わらなくては」と。まさに。
オギーは「スターウォーズ」が大好きなのだが、前身毛むくじゃらのハン・ソロの盟友であるチューバッカの
存在を心の支えとしている部分がある。(映像にもメタファーとして本物が出てくる)まさに「スターウォーズ」に
代表される宇宙時代には、誰がどういう容姿で、何語を話すか、などは関係ないのだ。オギーが宇宙に憧れるのは
そのあたりのメタファーである。

ジュリア・ロバーツの存在感の強みはさて置くとしても、子役たちの芝居が上手い。彼らの上手さがなければ
この映画からここまで感動を受け取れなかったのではないか。ただ、取ってつけたようなカタルシス的な
イジメっ子のボスとその両親と校長の掛け合いは私は不必要ではなかったか、と感じた。

「子どもは強いなあ」「とはいうもののそれを支える親を始めとした大人の存在(影響)は大きいなあ」
「自分は他人にはなれないのだなあ」「誰でもその人しかない価値を持っているのだなあ」などということを
考えながら観ていた。全編を流れるメンタリティーはアメリカだなあ、と思う。日本で作ると「万引き家族」の
ようなメンタリティになるんじゃなかろうか。

「出来過ぎ」と腐しはしたが、原作モノとはいえ、ストーリーの構成はユニークで面白く、重くない出来の割に
考えさせる点も多い佳作であることは確かだ。日本ならさしあたり「文部省特選」(今はないけど)という映画。
「心洗われたい」「温かい涙をたくさん流したい」「心が暖かくなりたい」という人がいたら必見ではないだろうか?

原題の「wonder」については母のジュリア・ロバーツがオギーに掛ける言葉「あなたは"奇跡"」として使われて
いるが、この言葉を英和辞典で引くとこの映画にフィットする実にいろんな意味が出ている。一度調べてみては?
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<ストーリー>
全世界で800万部を超えるベストセラーとなったR・J・パラシオの小説を、『ウォールフラワー』のスティーヴン・
チョボスキー監督が映画化した人間ドラマ。
遺伝子の疾患で人とは異なる顔で生まれた少年が、両親の決断で小学5年生で初めて学校へ通い、さまざまな困難に
立ち向かいながらも成長していく姿がつづられる。

10歳のオギー・プルマン(ジェイコブ・トレンブレイ)は、「スター・ウォーズ」が大好きで、宇宙飛行士に
憧れる男の子。だが彼は、普通の子とは少し違う見た目をしていた。遺伝子の疾患で、他の人とは異なる顔で生まれて
きたのだ。そのため、27回もの手術を受け、一度も学校に通わないまま自宅学習を続けてきた。

ところが、母親のイザベル(ジュリア・ロバーツ)は、“まだ早い”という夫のネート(オーウェン・ウィルソン)の
反対を押し切って、オギーを5年生の初日から学校に通わせることを決意する。
夏休みの間、イザベルに連れられて校長先生に会いに行くオギー。トゥシュマン校長先生(マンディ・パティンキン)の
“おケツ校長だ”という自己紹介に、オギーの緊張はややほぐれる。
だが、“生徒が学校を案内する”と聞き、動揺。 紹介されたのは、ジャック・ウィル(ノア・ジュプ)、ジュリアン
(ブライス・カイザー)、シャーロット(エル・マッキノン)の3人。いかにもお金持ちのジュリアンは、“その顔は?”と
聞いてくる。毅然とした態度を取るオギーだったが、帰宅後は元気がない。イヤならやめてもいいと言いかけるイザベルに、
“大丈夫、僕は行きたい”と答え、学校に通い始めるが……。(Movie Walker)

<IMDb=8.0>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:85% Audience Score:88% >






by jazzyoba0083 | 2018-06-27 16:20 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「エリザのために Bacalaureat」
2016 ルーマニア・フランス・ベルギー Why Not Productions,Wild Bunch,Canal+,Ciné+ and more. 128min.
監督・製作・脚本:クリスティアン・ムンジウ
出演:アドリアン・ティティエー、マリア・ドラグシ、ヴラド・イヴァノフ他
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<評価:★★★★★★★☆☆☆+α>
<感想>
「わたしは、ダニエルブレイク」がパルム・ドールを獲った2016年のカンヌで監督賞を獲った作品。
この年は豊作だった。ルーマニア出身のムンジウ監督の三作目。すべて自分でプロデュースし脚本を書く。
彼のカンヌ三連覇となる作品だ。賞が獲れてしまうのか、賞を狙って作るのかは分からない。
故にムンジウ色というものが強く主張されているのだろうな、と想像は出来る。青空のない世界、な感じ。

さて、本作を観て、改めてルーマニアという国についてWikipediaを眺めてみた。1989年のチャウシェスク
政権の瓦解により民主化され、現在はEU、NATOのメンバーでロシアの喉元にあってガッツリ西側の国になって
いるんだな。ウクライナなどと並んでロシアにしてみれば煙たい存在なのだろう。
民主化後も経済改革を中心とした国勢は回復途上で、そのような環境のある一面を描いたのが本作だ。
重く暗い映画である。
日本人がこの国について深く知る機会はほぼない状況下、本作を観てこれがルーマニアの全部と判断するのは
危険だろうが、国の大まかな捉え方としては参考になるだろう。

そこで本作である。主人公は警察病院の医師。娘の家庭教師だった女性と愛人関係がある。妻は意に沿わず、
図書館事務員として勤務している病的な感じの女性である。夫妻の間は愛人の存在が示すように、冷めている。
医師と妻の一人娘がエリザ。医師夫妻はかつて国に絶望して国外に出て、民主化後に帰ってきたものの、
自分たちが思い描いていた国情にはなっていなかった。そこで医師は娘をこの国に置いていても幸せにはなれ
ないと、幼い頃から英才教育を与え、(その経過として家庭教師を雇っていてそれが今の愛人になっている)
イギリス留学をさせようとしていた。
娘はかなりの優等生になっていて、夫妻の娘に掛ける希望は大きかった。娘には自動車学校の先生のボーイ
フレンドがいるが、医師は彼の存在をあまり好ましく思っていない。娘も彼氏と別れてイギリスに行くことに
躊躇もある。

そんな状況下で事件は起こる。愛人宅に寄るため、娘を学校の手前で下ろす。少し長い距離を歩くことに
なった娘エリザは学校の手前で暴漢に襲われる。幸い強姦は未遂で手に怪我をしただけで済んだが、
心に負った傷は小さくなかった。
時期が悪く、留学奨学生になるために好成績が必要とされる学校の最終試験に不安が・・・。

そこで父親である医師は、警察病院の医師である地位を利用し、警察署長から副市長、試験監督官とコネを
たどり、不慮の事件にあった娘の試験の結果に手心を加えてくれるように奔走する。
すると「最後の問題の最後の文章の単語3つに横線を入れる」と、それがエリザであることのサインとなり
試験に手心が加えられるところまで漕ぎ着けた。

一方娘を襲った犯人捜査にも署長を督励し、懸命となり、ボーイフレンドを疑ったり、娘可愛さは分かるが
やりすぎの空回りが目立つようになっていく。自分が何をしているかについて娘への愛情で目が曇って
しまっている。それに気が付かない。
そして娘に試験に際してのズルの仕方を教える。娘は父を蔑むことはあからさまにはせず、聞いていたが、
実際の試験ではその手は使わなかった・・・。娘は親が心配するよりずっと大人だし、頭も良い。
試験の結果も犯人のその後も明らかにされず映画は終わる。

父が娘を思う気持ちは良いだろう。当たり前だ。なんとか自分の出来ることはしてやりたい。そうだろう。
そして動く父。ルーマニアがコネ社会なのかどうかは知らないが、父のコネを伝ってズルをすることが受け
入れられる社会なのだということが描かれている。それは、自分や妻がかつて唾棄していた国の有様だった
のではないか?自分が普段から不平を言い、この国から出したいと娘に願っているその状況に加担している
行為をしてしまっているわけだ。つまり天に唾するということ。ムンジウの告発はそこにこそ、ある。
いや、ムンジウは告発をしているわけではない。自分の生まれた国の人々が陥っている愚行を観客の前に
提示し、「放置」する。芋づる式に登場する不正の連鎖に対する「突き放した」というか「放置」した
目線。自分が施して貰ったのは不正ではなく温情だ、という自らに対する思い込ませ。それがかつて国を
ダメにしてきたのに。娘が父に投げかける言葉に観客の思いが共振するだろう。このあたりどうやら
ムンジウの真骨頂らしい。

映画の冒頭で家に石が投げ込まれ窓が割れるシーンがある。そして次いで自家用車のフロントガラスに
投石されているシーン。誰がやったのか?そして盛んに登場する野良犬の存在とその吠え声。
それらはムンジウが描こうとしているルーマニアの現在に対するメタファーに他ならない。

いかにもカンヌ好みの観念的主張を含んだ作品。心に重くのしかかる暗い映画で、作中の出来事はすべて
回収されない、という特異な終わり方。しかし、それでイライラするかと言うと、その前にため息が出て
しまうという・・・。そんな映画が好みという方はご覧になると面白いだろう。
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<ストーリー>
ルーマニアの小さな町に暮らす医師ロメオ(アドリアン・ティティエニ)には、愛人がおり、家庭は決して
うまくいっているとはいえない。ある朝、イギリス留学を控える娘エリザ(マリア・ドラグシ)が、
登校途中に暴漢に襲われてしまう。大事には至らなかったが、彼女の動揺は大きく、留学を決める
最終試験に影響を及ぼしそうだ。
ロメオは娘の留学をかなえるため、警察署長や副市長、試験監督とツテを頼り、ある条件と交換に試験に
温情を与えてもらおうと奔走する。
だが当の娘には反発され、ロメオには検事官の捜査が迫ってくるのだった……。(Movie Walker)

<IMDb=★7.4>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:95% Audience Score:83% >





by jazzyoba0083 | 2018-06-25 23:30 | 洋画=あ行 | Trackback | Comments(0)

●「ウソはホントの恋の始まり  A Case of You」
2013 アメリカ Lagniappe Films,I'm So Sorry Productions. 92min.
監督:カット・コイロ
出演:ジャスティン・ロング、エヴァン・レイチェル・ウッド、シエナ・ミラー、キーア・オドネル他
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<評価:★★★★★☆☆☆☆☆>
<感想>
ライトな感覚のラブコメ。設定に既視感はありあり。主人公の親友のありようは「ノッティング・ヒルの恋人」
だったり。舞台がブルックリンだったり。小説家希望の青年という設定からして、珍しくないし。
そんな男が喫茶店ウェイトレスの女性に恋してしまい、Facebookを探して彼女の趣味や嗜好を見つけ、
彼女好みになりたいとその趣味や嗜好に合わせようと、(涙ぐましい=苦笑)苦労を重ねて、アプローチ
するが・・・。そしてその一部始終を小説にして仕上げていくのだが。

書いている小説の方は出版社の友人から途中まではいい、続きを相談しよう、といわれ行ってみて指摘され
たのは小説に反映させてきた自分の行動を否定することばかり。(自分が夢想している相思相愛のハッピー
エンディングとは違う)
自分で理想像を作り上げ勝手に女性に接近し、同調電波を送りまくる。相手の女性もユーモアもあるし
真面目な彼を好ましいと思い始める。しかし自分は相手のことを殆ど知っている(つもり)なのに、相手は
自分の事を全く知らないことに逆ギレ。(←ほとんどアホのストーカー状態)

しかし、相手の女性が自分の行動をすべて知っていたという事を知り、自分がいかにアホであったかを
理解して、ハッピーエンディングを迎えると。

好きになった相手に自分をよく見せたい、という気持ちもよく分かるのだが、やり方を間違えちゃ、あかんよ、
という事だね。「展覧会買い占め自分勝手逆ギレVS編集者にやり込められる会話」がカタルシスを
形成している。軽い感じで観ましょう。時間も短いし。
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<ストーリー>
「COMET-コメット-」や「ダイ・ハード4.0」のジャスティン・ロングが脚本・主演を務めるラブコメディ。
好きな女性の理想像を演じようとする作家の奮闘を描く。相手役は「アクロス・ザ・ユニバース」のエヴァン・
レイチェル・ウッド。
新宿シネマカリテの特集企画『カリテ・ファンタスティック!シネマコレクション2016』にて上映。

ニューヨーク、ブルックリン。若き作家のサムは、カフェの店員バーディーに恋心を抱く。SNSで彼女の
好みのタイプや趣味を見つけたサムは、彼女に振り向いてもらうために、彼女の理想像を演じていく。
ついに彼女のハートを射止めるが、限界がきてしまい……。(Movie Walker)

<IMDb=★5.7>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:47% Audience Score:27% >






by jazzyoba0083 | 2018-06-25 22:30 | 洋画=あ行 | Trackback | Comments(0)

●「プロバンスの贈りもの A Good Year」
2006 アメリカ Fox 2000 Pictures (presents),Scott Free Productions. 114min.
監督・製作:リドリー・スコット 原作:ピーター・メイル『プロヴァンスの贈りもの』(河出書房新社刊)
出演:ラッセル・クロウ、マリオン・コティヤール、フレディ・ハイモア、アルバート・フィニー、アビー・コーニッシュ他
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<評価:★★★★★★★☆☆☆+α>
<感想>
このブログを開設したころに公開された映画で、2009年に観て、当ブログにも感想を書いた。その時は結構シビアな
感想を書いていた。リドリーがどのような作品を作って来たのかは今のほうが理解は進んではいるが、当時は
活劇系の人だという印象が強い傾向であったみたい。いい雰囲気を持った映画だなあ、という思いはあったようだ。
その後好きな女優さんの一人となるマリオン・コティヤールの印象が強かった記憶もある。来年南仏を訪問して
みたいと思っているので、どういう映画だったかな、という事やロケした風景を確認したくて再見した。

9年経つと映画の感想も変わることもあるのだな、という典型。見方が進んだというのか、感性が変化したと
いうか、当時の見方が浅かったと云うか。(汗)
今回の再見で思ったのは、初見の時に感じたこととは、やや異なる。今の私が感じたのは、南仏の急がない人生を
愉しむ人々の暮らしが、眉根をひそませる必要もなく、肩の力を抜いてリラックス出来る、いい感じの映画に仕上
がっているなということ。そしてコティヤールはこのころから存在感があった、ということだ。

ネット上での感想の中に、「リドリー・スコット、やっちまったな」という厳しい意見が多いが、私はそうは思わない。
(Rotten Tomatoesの評論家評価と、一般観客の評価の差にこの映画の捉えられ方の相違が現れていて興味深い。
観た結果、いい映画を誰が監督したものであろうが、いいものはいいし、著名な監督が作ったからといって全部が
名作であるわけでもないのは自明だ)
この作品は「エイリアン」とか「ブレードランナー」「ブラック・レイン」「テルマ&ルイーズ」などの潮流にあると
思ってはダメだ。彼がこの手の映画しか作ってはいけないという法律があるわけでもなく、期待したい気持ちは
分かるけど、本作はプロバンスにワイン用ワインヤードを持つリドリーが、現地で聞いた「ブティックワイン」の
噂を親友で作家のピーター・メイルに話し、それをメイルが小説化、更にそれをリドリーが映画化したものなので、
彼が製作を担当していることからみても、彼の個人的趣味性の強い作品であり、その辺りの事情を汲んだ上でリドリーの
名前について語らないと、片手落ちということにならないか。それとリドリーがイギリス人であり、「年中しょぼくれた
空のイギリス」人が南仏に強烈なあこがれを感じるメンタリティは個人的には極めてよく理解出来る。
ただし、リドリーは確かにこの映画を境にピークを過ぎていってしまうような感じではある。老境に達してきたと
言うこともできようが。本作で肩の力が抜けてしまい、元に戻らなくなった、のかもしれない。それはそれで・・。

本作へのリドリーの想いは強く、子役も含めたキャスティングや切り取られた南仏の光景(名所も含め)、ストーリーの
流れも、描かれる人間模様も、作品全体を通す、ロハスな雰囲気をきっちり汲み上げ手堅い仕上げとなっている。
しかも、登場する若い女性陣にミステリックかつ、ホノボノとしたエピソードもあったりで、誠に心がハッピーになる。
語られる世界は極めてオーソドックスなのだが、そこを陳腐にしていないところは、作家と監督の思いが深い
ところで結びついていたことに由来する強さなのだろう。
「歌枕」の一つでもあるプロヴァンスものでは一番出来がいいのではないかと思っている。原題はワインの「当たり年」
という意味で、映画ではいろんな意味合いを含んでいる、なかなか味わいのあるタイトルである。

幼い頃プロヴァンスで叔父さんと過ごした記憶。長ずるに及び、ロンドン・シティーの名うての金融トレーダーに
なり、この叔父の死去でシャトーをたたまなくてはならなくなるのだが、プロヴァンスで出会うコティヤールや
ブドウ畑の使用人、シャトーの世話をする奥さん、など魅力的な人物との交流で、主人公の心がほぐれていく・・。
コティヤール、やっぱりいいなあ。この人がいると映画が締まる、という俳優さんがいる。そういう俳優さんの
一人が私にとってはマリオン・コティヤール。(「マリアンヌ」では残念な演出に泣いたけど)

また観るだろう。いい「雰囲気」を味わうという鑑賞の仕方をするには絶好の映画だと思う。
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<ストーリー>
少年マックス(フレディ・ハイモア)は毎年夏になると、南仏プロヴァンスに住みつきワイン造りをしながら
人生を謳歌するヘンリーおじさん(アルバート・フィニー)のもとでヴァカンスを過ごしていた。

時は流れ、ヘンリーが授けてくれた叡智と哲学のおかげでロンドンの金融界で豪腕トレーダーとして活躍する
マックス(ラッセル・クロウ)は、超多忙な日々を送り贅沢な独身ライフを楽しんでいたが、彼には本当の愛は
見えていなかった。
ある日マックスのもとに、ヘンリーが亡くなったとの報せが届き、遺産を相続するためにプロヴァンスへ向かう。
途中、自転車の女性を轢きそうになるが、マックスは気付かずに車を走らせる。女性は地元のレストランのオーナー、
ファニー(マリオン・コティヤール)。鼻っ柱の強いファニーは、シャトーの前に例の暴走車が停まっているのを
見つけ、仕返しをしにマックスの前に現れる。相続と売却の手続きをすぐに済ませ、ロンドンにとんぼ返りする
つもりでいたマックス。ところがハプニングに見舞われ、この地で休暇を取ることに。滞在を重ねるうち楽しかった
幼い日の記憶が次々とよみがえり、彼の心はゆれる。そして何よりも彼の心を乱したのは、ファニーの存在だった。

ファニーのレストランに助っ人に入ったマックスは、彼女とのデートの約束を取り付ける。大人の会話を楽しんだ
後にめぐる上質なワインの酔い。二人はムーディな雰囲気のまま、マックスのシャトーに泊まる。
翌朝、ここは自分の人生に向かないと告げるマックスに、ファニーはマックスの人生がここに向かないと切り返す。
やがてシャトーとぶどう園の売却の手続きを終えたマックスに、ロンドンへ戻る日が来る。惹かれあいながらも
マックスとファニーは、人生の価値観の違いから別々の路を歩みはじめようとするのだが、プロヴァンスでの
幾つもの贈りものが、彼を変えようとしていた。(Movie Walker)

<IMDb=★7.0>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:26% Audience Score:65%>



by jazzyoba0083 | 2018-06-23 23:10 | 洋画=は行 | Trackback | Comments(0)

●「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う Demolition」
2015 アメリカ Sidney Kimmel Entertainment and more.101min.
監督:ジャン=マルク・ヴァレ
出演:ジェイク・ジレンハウル、ナオミ・ワッツ、クリス・クーパー、ジュダ・ルイス、C・J・ウィルソン他
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<評価:★★★★★★★☆☆☆+α>
<感想>
この映画を観た人が等しく想うのが、「良く分かんなかった」というのと「邦題はどうなの?」という点だ
ろう。確かに、なかなか手ごわい映画ではある。私も、「妻を愛していなかった主人公が妻の死亡事故を
キッカケに頭のネジが5~6本抜けちゃった」のかな、と最初は思った。また、邦題がなぜこいう文言に
なったかの秘密も、ほんの短いカットで示されるので、そこを見逃すと、ますます分からなくなる。

さらに細かい伏線やメタファーが冒頭辺りに、かなり分かりにくく埋められているため、それらの回収を
しっかりしようと思うと一度観ただけでは分からない、といのが実際だろう。エンディングでメリーゴー
ラウンドに乗っている特殊学級の生徒がなぜそこにいるのか、についても妻の葬式のシーンをしっかり
観ていないとわからないだろうし、分からないとエンディングの主張の意味が無くなってしまう。
映画の中で使われる音楽やガジェット、ちょっとしたセリフにも注意が必要だ。

表現方法は荒っぽく、観ている方は映画を構成するであろうピースを頭の中で組み立てるのに苦労
するタイプではあるが、しかし言わんとしているところは実は単純なのだ。

「(金融業の仕事が忙しすぎて)妻を愛しているという意識が地層の下に埋まってしまった男が、交通事故に
よる妻の死と愛を受け入れ、再生するために、ひたすら「解体(原作のタイトルの意味)」を繰り返す。それは
物理的にモノをぶっ壊すことであり、自分の心を一度壊してみて組み立てる作業でも有ったのだ。その結果、
男は妻と妻への深い愛情を確認し、再生を果たす」ということでいいんじゃないだろうか。

妻の死による自失の程度が激しいので、観客は面食らう。それは映画でしか出来ない世界であり、映画の
醍醐味でもある。下手をするとハチャメチャになるような作品をその主張をしっかりと表現し、作品として
成功させていたのがジェイク・ジレンハウルの存在だった。この人の映画は殆ど大外れがないという所を
みるとそれだけプロデューサーから声がかかる力量があり、話題作へのキャスティングに繋がっているのだろう。私も
大好きな俳優さんの一人である。

人は誰でも大きな悲しみや怒りに襲われると、破壊本能が働くのじゃないかな。だが、ここで主人公
ディヴィスが取る行動はそれとはちょっと違うような気がする。心に空いた穴の存在が果たして妻の死に
依るものなのか、その確認作業と、自分が何者かが分からなくなってしまった(自失)ことも含め、
義父に言われるままに、一度全部壊してみてまた組み立てる作業に、その穴の存在の確認と自分の再生を
賭けた訳だ。ブルドーザーを買ってまで自分の家をぶっ壊すとか、解体現場に飛び込みで志願して働くとか
相当乱暴だし普通の人はやらないし出来ないだろう。だがそれが表現出来るのが映画のいいところだ。
その激しさに観客は主人公の苦しみの強度を推し量るのだ。
この激しい壊しっぷりは映画だから出来るのであって、普通の人は決してマネをしないでもらいたい。
(しないか。ww)

破壊だけの単純さではなく、病院の自販機メーカーの苦情受付係カレン(ナオミ・ワッツ)の存在と
加えて重要なのが、彼女の息子クリスの存在。学校を停学中で、ややこしい年頃の少年との心の交流も
ディヴィスの再生に大きな役割を果たす。最近のアメリカ映画の潮流である愛と赦しがテーマとも言える。
妻は浮気をし、その相手の子どもを妊娠し、堕胎までしていたのだが、ディヴィスは最終的には赦す。
(なぜ赦す気になれたかは映画が物語る)それが自分が再び生きることに必要だから。

「ダラス・バイヤーズクラブ」の監督らしく、手持ちカメラはもちろんとしても、画作りも工夫されていて
持って行き方が上手いなあ、と感じた。個人的に全体として「回りくどい」空気は付きまとうものの
印象深い作品だった。好悪が分かれる作品だろうが、時にこういう欧州にはないタイプの観念的な作品も
いいなと思った。
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<ストーリー>
ディヴィス(ジェイク・ギレンホール)は、出世コースに乗り、富も地位も手に入れたウォールストリートの
エリート銀行員。高層タワーの上層階で、空虚な数字と向き合う味気ない日々を過ごしていた。
そんな仕事へ向かういつもの朝、突然の交通事故で美しい妻が他界。ところがディヴィスは、一滴の涙も出ず、
哀しみにさえ無感覚になっている自分に気付く。自分は妻のことを本当に愛していたのだろうか……。

そんななか、「心の修理も車の修理の同じことだ。まず隅々まで点検して組み立て直すんだ」という義父
(クリス・クーパー)の言葉が契機となり、ディヴィスは身の回りのあらゆるものを破壊し始める。会社の
トイレ、パソコン、冷蔵庫、妻のドレッサー、そして自らの結婚生活の象徴である“家”さえも……。
やがてディヴィスは妻が遺していったいくつものメモを見付けるのだが……。(Movie Walker)

<IMDb=★7.0>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:52% Audience Score:53% >



by jazzyoba0083 | 2018-06-21 23:20 | 洋画=あ行 | Trackback | Comments(0)

●「おとなの恋の測り方 Un homme à la hauteur」
2016 フランス Gaumont and more. 98min.
監督・(共同)脚本:ローラン・ティラール
出演:ジャン・デュジャルダン、ヴィルジニー・エフィラ、セドリック・カーン、ステファニー・パパニアン他
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<評価:★★★★★★★☆☆☆>
<感想>
LGBTを始めとして、他人とは違うことをどう受け止めるか、ということをテーマにした映画がこのところ
大変目につく。ジャンルを問わずだ。それだけ世界的な規模で「ヘテロに対する不寛容」が横行している、と
いうことなのだろう。世界の政治を観ていると、そんなニュースは枚挙に暇がない。嫌な時代になったものだし、
それをそのままにしておいていいとも思わない。
映画界でもそれは同じ思いのようで、さまざまな形を借りて、人々の「不寛容」についての問題を投げかけ続けて
いる。まだ観てないが「ワンダー 君は太陽」という作品も、直球勝負での問いかけだ。

本作は、ラブコメディーの形を借りて、かなり直球気味で上記の問題を投げかける。深刻な作品ではないので、
重い気持ちにならずに、笑いもありつつ「ハンディキャップ」を背負った人々に対し、どう思うのかを問うてくる。
しかし、深刻な表現ではないだけに、ストレートに心に刺さる効果もあると見えた。

バツイチの女性弁護士ディアーヌが落とした携帯をアレクサンドルという男が拾い、彼女に電話してくるところ
から映画は始まる。アレクサンドルは携帯を返すことを条件に彼女をデートに誘う。(姿が見えない女性に対し
なかなか大胆ではあるな) 約束のレストランに現れたのは身長136センチの小男だった。
「想像していた男ではなかった?身長が40センチ足りない?」「いいえ、そんなこと」とディアーヌは云うが
明らかに気にしている。

彼は自分が低身長症であることをマイナスにしておらず、なかなかの美男子で、おしゃれ、会話は上手いし、
ユーモアもたっぷり。更に高名な建築家でもあり、立派な父親でもあった。加えて大学生の息子は父を尊敬
しているこれまたできの良い息子。別れた奥さんとは今も良好な関係を保っている。テスラに乗るお金持ちでも
あるが、金銭的なことはオクビにも出さない。すなわち身長以外は全く文句のない男性なのだ。

最初は驚いたディアーヌだったが、彼の人柄に次第に惹かれていく。だがどうしても周囲の目が気になる。
(この辺りから映画を観ている人はディアーヌを自分に置き換えて考えていくのだと思う。)愛してしまえば
身長なんか関係ない、というのは簡単である。世の中はそう寛大ではないのだ。二人でいれば奇異の目に
晒されることになる。アレクサンドルは気にしていないが、気にしているディアーヌを気にしてしまう。
やはり自分が彼女のそばにいたら迷惑なのではないか、と。
体を許す仲となるが、結局自分の心の葛藤から逃れられない。
「難しいわ。どうしても私の理想の男性と比べてしまう」「理想を植え付けたのは誰?キミだ」

ディアーヌのマイナス思考の考えを諌めるのが彼女の秘書。なかなかの正論を吐くのだ。ディアーヌの心も
固まって両親に紹介することになるのだが、両親もびっくり。まさか娘がこんな小男と結婚すると言い出す
とは!と。だが、ディアーヌの父親は耳に障害を持っていた。反対する母親は「あなたは外見は普通じゃ
ないの。耳がちょっと聞こえないだけで」というと、父親は「障害はお前の心の中にある」と憤然とする。
まさに、これだ。
さらにアレクサンドルと生涯をともにする決心がつかないディアーヌに対し、秘書が言う。
「あなたが小さい。体は普通でも心が小さいのよ。心の器が小さくて感情のキャパもちっちゃいの。
その原因は幼少期にある。私達は頭に先入観を植え付けられて、違いがある人を受け入れられない。
皆と同じがいいと思っている。分かる?これじゃ私達もナチスと変わらない」と。
心理学者だねえ。そのとおりだよ。

だが「人からどう見られても自分たちが良ければ、深い愛で結ばれていれば、何の障害にもならない」と
わかっていても人はそう簡単にそうですか、とはなれないものだ。昔の映画でシドニー・ポワチエが主演
した「招かれざる客」という作品では、黒人と結婚するといい出した白人の両親の狼狽を描いていた。
そのあたりを攻めてくる映画が本作だ。

最後にディアーヌがアレキサンドルにいう。「これからもきっと困難はある。じろじろ見る人を殴っちゃう
かも。でも分かったの。人がどう思うかは関係ない。誰を愛するかは私が決める。私の人生よ。
他の人には慣れてもらう。それが分かって自由になれた。やっと自由に。愛してる」

実はアレクサンドルに対比する存在として、ディアーヌと離婚して3年。弁護士同士で同じ法律事務所を
二人で経営していて働く場所がいつも一緒という別れた旦那の存在がある。
彼は身長もあるし、弁護士で社会的地位もある。だが、「こころが小さい」のだ。その代表選手として
描かれている。

恋愛における障害のありようを、もっと言えば人として暮らしてく中で自分と違うということをどう受け
止めるか、という結構深く重い問題をラブコメディの形を借りてさらりと描いた。
100分未満で編集したのも良いと思う。
だが、このテーマ「言うは易く、行うは難し」だ。だからたくさん映画になるのだろうけど。これが普遍的に
受け入れられる社会になったら世界はどこくらい平和になることだろう。

実際の身長182センチのジャン・デュジャルダンを低身長者として撮影するのには相当苦労したようだ。基本
CGで、あとはジャンが膝を折って演技したり、実際に身長の低い男性のバックショットを使ったり、
遠近法を使ったりと。だが、影の付け方を含め、全く違和感がない。画作りは良好だ。少ない出演者で纏めた
のも、主張が明確になってよかった。ただ、言わんとしているところがあまりにもストレートな映画なので
もう少しひねりはなかったか?上品にまとまりすぎ、と思われる向きもあるだろう。

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<ストーリー>
敏腕女性弁護士と背の低い建築家が繰り広げる恋の騒動を描く、フランス発のラブ・コメディ。
『アーティスト』でアカデミー賞主演男優賞に輝いたフランスの名優ジャン・デュジャルダンがCGで小柄な男に
変身。周囲の偏見をはねのけ、彼女に男の価値を再確認させるキャラクターをコミカルに演じる。

腕利きの弁護士ディアーヌは、女癖の悪い夫と離婚して3年が経つものの、まだ新しい恋とは出会えていない。
元夫は仕事のパートナーでもあり口論が絶えず、いらいらが募っていた。そんな中、彼女がレストランに忘れた
携帯を拾ったアレクサンドルという男性から連絡が入る。知的でユーモラスな口調にほのかにときめディアーヌ。
翌日会うことになり、胸を躍らせ待ち合わせ場所に向かったところ、やってきたのは自分よりもずっと身長の
低い男性だった。期待が外れ早々に引き上げようとしていたが、リッチで才能あふれる建築家のアレクサンドルの
話にいつの間にか魅了される。アレクサンドルはディアーヌが経験したことのないようなエキサイティングな
体験をプレゼントしたいと申し出、二人はデートすることになるが……。(Movie Walker)

<IMDb=★6.3>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:36% Audience Score:48%>




by jazzyoba0083 | 2018-06-19 22:50 | 洋画=あ行 | Trackback | Comments(0)

空飛ぶタイヤ

●「空飛とぶタイヤ」
2018 日本 松竹、「空飛ぶタイヤ製作委員会」 120分
監督:本木克英 原作:池井戸潤「空飛ぶタイヤ」(講談社文庫、実業之日本社文庫刊)
出演:長瀬智也、ディーン・フジオカ、高橋一生、笹野高史、岸部一徳、ムロツヨシ、阿部顕嵐、寺脇康文、深田恭子、
   升毅、佐々木蔵之介、六角精児、大倉孝二、柄本明他
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<評価:★★★★★★★☆☆☆-α>
<感想>
大ベストセラーになり池井戸の名前を一躍世に知らしめた原作は未読。ただし、「半沢直樹」「下町ロケット」
(WOWOW版、TBS版)「陸王」など池井戸原作テレビドラマは熱心に観ていた。(本作をWOWOWで
ドラマ化された時は見逃してしまった。)故に、池井戸ワールドの持つ魅力は、多少なりとも分かっている
つもり。

で、本作も、池井戸得意の経済小説を脚色、テレビドラマなら10話ほどになる話のボリュームを2時間に仕立てた。
正直、ストーリーの持つ力なのだろう、2時間緊張感を保ちつつ面白く観ることが出来た。よくこの長編を2時間に
纏めたな、という脚本(脚色)のちからと、監督の演出は評価されていいと思う。

しかし、である。どこかテレビドラマを観ているような感覚から抜けきれず、面白いし、池井戸作品の特徴としての
「倍返しだ!」的勧善懲悪的カタルシスは健在。観終わって、満足感のレベルは高いと思うが、何か、心のどこかに
「映画的充足感」の不足さを感じてしまった。あくまでも個人的レベルであることをお断りしておかなくてはならないが。

色々と考えた。まず昨年の映画「怒り」の感想ブログでも書いたが、日本の役者のキャスティングシステムがテレビと
映画の境目が殆ど無いという点。洋画と比べると、茶の間に日常的にあるものがスクリーンに現れても、共感が盛り
上がりづらいのではないか。いつも観ている顔ぶれが並ぶ映画でのドラマは、ましてやあるパターンを持った池井戸
原作ものは原作未読といえども、経過結末を予想することは簡単で、それだからこそ、役者の非日常世界にあっての
インパクトが必要になってくるのではないか。逆の意味での好例は安藤サクラだ。彼女はここ5年ほど特に民放の
ゴールデンのテレビにはほぼ出ないので、映画スクリーンでの登場人物としての共感度が極めて高い。(これからも
映画中心でお願いしたいものだ)
男優であれば、佐藤浩市とか役所広司、渡辺謙は割とテレビには出ないが、逆に彼らは映画にたくさん出てくるので、
キャラクターが重なり合い、それはそれで私には良いとは思えない。それらは役者が悪いのではなく、日本の映画と
テレビが持つ構造的な問題。映画館に来る客がテレビドラマを観るようなスタンスで映画を楽しみに来る時代だ、と
いうのならそれはそれで良いのかも知れない。しかし、映画は映画の魅力を放っていて欲しい。
本作でも、テレビや他の映画でもいつも出てくるメンバーが重要な役目を果たす。主役級の三人(長瀬、ディーン、
高橋)はハンサムすぎ。(原作では長瀬役の赤松社長はずんぐり型らしい) 長瀬の妻役の深田恭子は明らかに
浮いていた。(深田が悪いのではなく、キャスティングミス)

つまり映画世界における感動の盛り上がりに損しているということ。これは役者や監督が悪いわけではなく、日本の
映画製作の文化的、システム的マイナス点といえると個人的には思っている。

もう一つ、映画づくりのシステムとは別に、池井戸作品の持つパターン化したカタルシス。中小企業の(金銭的)苦闘、
その会社内での対立と最後には孤立無縁ながら奮闘する社長を中心に結束する「仲間」たち。(ここは極めて浪花節的
である)そしてその中小企業に立ちふさがる大企業の傲慢さ、更に銀行の冷酷さ(理解する銀行マンの存在も必ず登場)
中小企業では解決出来ない事案をサポートする結果となる雑誌や新聞の登場、大企業(や巨大銀行)にも必ずいる善人
たち。こうした流れは、本作でも全く同様に展開していく。
観客は最後には巨悪が倒れ、中小企業の社長以下に凱歌が上がる、というシーンを観て快哉を叫び、溜飲を下げ、
自分の日常では起きないカタルシスを感じ、満足するのだ。そうしたパターン化(「水戸黄門」化とでも云うのか、
「勧善懲悪」というのか、「弱者が強者を打ち負かす普遍的な快感」というべきか)は、ハズれない面白さは提供するが、
さらなる感動へとはなかなか結びつきにくいのではないか。

以上、本作を観ての2つの大きな感想。「総じて映画的な深みには欠ける」。
そこに私の評価のマイナスαの意味がある。

更に、池井戸ドラマは、人間が何かアクションをする映画ではない。本作で言えば、赤松運送の事務所であり、ホープ
自動車の社内、ホープ銀行の行内、港南署の署内、そしてレストランや喫茶店の店内が舞台となり、セリフが重ねられ
ていく。一番動きが有ったのが、赤松社長が、自分のところの事故と同じような事故のリストを、事件を追っていたも
のの社内の圧力で記事がボツになった「週刊潮流」の記者(小池栄子)から貰い、それに従って、日本全国の運輸会社を
尋ね回るシークエンスくらいか。恐らく本木監督も、その辺りは苦労したに違いない。カメラを手持ちにしたり、カット
割を短くしてみたりと工夫は感じられた。が、やはり演出、演技というよりもどうしてもストーリーの展開に引っ張られ
登場人物の心の動きというものがいささか感じづらいな、と感じたのだった。それはテレビドラマにすれば10話にも
なる(WOWOWですら45分×5話だった)ボリュームをテンポよく二時間以内のしかもエンタメ性を持った作品に
求めるのは酷かもしれない。

全体として良かったのか、悪かったのか、と問われると、「良かったし面白かった」と答えたい。ただ、以上のような
事柄から、「今日的日本のテレビドラマ的面白さ」として、という条件が、私の場合は付いた、ということだ。
二時間は短く感じられ、ストーリーの面白さからぐいぐいと引き込まれることは間違いない。それはそれで「ある意味」
面白い映画の証左、ということなのだろう。

さて、本作は2000年代に入った頃に社会を賑わせた三菱自動車のリコール隠しと、横浜で実際に起きた三菱製トレーラー
のタイヤ脱輪事故で母子3人が死傷した事件をベースに、主に、「財閥系」企業の「企業統治」のお粗末さと、
そこから派生する「怖さ」を、そしてこれに潰されまいと勇気を奮い立たせる中小企業の社長らの活躍を描いている。
三菱自動車はこうした「隠蔽体質」が社長が何代代わってもつい最近の排ガス偽データ報告事件に至るまで解決されて
おらず、ついに三菱自動車は日産グループに組み込まれてしまった。
それは財閥参加にあって、「銀行」「重工」などの支援が手厚く、甘やかされた体質が未だに抜けきれいないということ
なのだろう。
そうした自動車メーカーを相手に、脱輪は運輸会社の整備不良ではなく、トラックの欠陥に由来するのではないか、との
信念で、事故の真相を見つけようとする運輸会社社長赤松(長瀬)、トラックを製造したホープ自動車の良識派社員
(ディーン、ムロら)、これまでホープ自動車を甘やかした融資を繰り返してきたホープ銀行の良識派(高橋)らと
それぞれに係る家族だったり、友人だったり、警察だったりが、絡んでドラマを織りなしていく。
実際に起きた事件や事故がベースになっているので完全に作りものでない面白さが感じられた。

三菱系の方は辛い映画だろうなあ。かつてゼロ戦を作り、パジェロという名車を作り、日本を代表する自動車メーカー
の一つでもあった三菱自動車は今や日産グループ傘下で再起を図っている。果たしてあの「隠蔽体質」は直ったのだろうか。
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<ストーリー>
 WOWOW製作の連続ドラマ版も好評を博した池井戸潤の傑作企業小説を長瀬智也主演で映画化した社会派ヒューマン
・サスペンス大作。ひとつのリコール隠し事件を題材に、事故原因が自社の整備不良だと疑われ窮地に陥った弱小運送
会社社長が、その汚名をそそぐべくたった一人で真相究明に奔走する中で、やがて思いも寄らぬ大企業の巨大な闇に
直面していくさまを豪華俳優陣の共演で描き出す。
共演はディーン・フジオカ、高橋一生、深田恭子、笹野高史、岸部一徳。監督は「超高速!参勤交代」の本木克英。

 ある日、1台のトレーラーが脱輪事故を起こし、歩道を歩いていた子連れの母親が外れたタイヤの直撃を受け死亡
する。製造元のホープ自動車は、事故原因を所有者である赤松運送の整備不良と決めつける。社長の赤松徳郎は世間や
マスコミの激しいバッシングを受け、取引先を次々と失った上、銀行にも冷たくあしらわれ会社は倒産寸前に。
それでも自社の整備担当者を信じて独自に調査を進め、ついに車両自体に欠陥があった可能性に辿り着く赤松
だったが…。(allcinema)




by jazzyoba0083 | 2018-06-16 16:30 | 邦画・新作 | Trackback | Comments(0)

●「イースター・パレード Easter Parade」
1948 アメリカ Metro-Goldwyn-Mayer (MGM) 103min.
監督:チャールズ・ウォーターズ  製作:アーサー・フリード 作曲:アーヴィング・バーリン他
出演:フレッド・アステア、ジュディ・ガーランド、ピーター・ローフォード、アン・ミラー、ジュールス・マンシン他
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<評価:★★★★★★★★★★>
<感想>
名画再見と称したが、もう何回観たかなという大好きなミュージカル映画。身近に有り過ぎで当ブログにも
アップしていなかった。市の開催する月イチの映画鑑賞会、今回の出し物がこれだった。DVDも持っている
けど、やはりテクニカラーを大画面で観てみたいと出かけてみた。果たして迫力が全然違うなあ。銀幕は。

上映前に講師の先生からこの映画についての解説がなされるのだが、本作は製作されたのが太平洋戦争が終
わって3年後。日本公開が1950年なので、まだ焼け跡が残っていた頃で、日本がまだまだ敗戦後の貧乏の
どん底で喘いでいた頃、日本にはアメリカからカラー映画を購入するような外貨はなく、占領軍のお目
こぼしを受けて本国から2年遅れでの公開となった。そこに映し出された夢のような「総天然色」の世界は、
当時の日本人にとっては誠に夢の世界そのものであり、異国の文化に圧倒されたひとときであった、という
ことだ。当時を知っている年齢の先生なので、間違いはなかろう。さらに本作はMGMミュージカルが日本で
公開された第一号なのだそうだ。

フレッド・アステアは数々の名作ミュージカルにジンジャー・ロジャースらと出演、1946年封切りの
「ブルースカイ」をもって引退を表明、全米に「フレッド・アステア ダンススクール」を開設し
後進の指導に当たっていた。しかし、本作に当初キャスティングされたジーン・ケリーが足首を痛め
出演不可となり、急遽MGMに乞われて出演した。しかしまさに怪我の功名、本作はアステアを代表する
一作となったのだった。

相手を務めるのが、当時26歳、その歌声も脂が乗りきっていた頃のジュディ・ガーランド、そして本作
からMGM専属となったダンスの名手アン・ミラーだ。
監督は後年「上流社会」などをモノする、みずからもブロードウェイのダンサーであったチャールズ・
ウォルターズ。MGM一作目である。さすがはダンサー出身だけあってツボを心得たダンスシーンの美し
さとダイナミックさ。そしてアステアのダンスでは当時珍しかったスローモーションを使うなど、斬新な
テクニックも使われている。さらにテクニカラーがまた美しい。

ところで、本ブログのタイトルをご覧になってもおわかりと思うが、私は1930年代から60年代頃の
ハリウッド製ミュージカル映画が大好きで、特にMGMの諸作品はVHS~DVD~Blue-rayに至るまで
コレクションを持っている。また20世紀フォックスのリチャード・ロジャーズ、オスカー・ハマー
スタイン二世のペンになる楽曲が使われる「南太平洋」「サウンド・オブ・ミュージック」なども
大好きだ。
この世界に没入したのは、そもそもジャズが好きで、そのスタンダードの多くがブロードウェイ・
ミュージカルが原典となっていると知り、それならば原典に接しなければ、と観始めたら虜に
なってしまったというわけだ。

左様に、この手の映画には甘い評価となるが、本作は映画史に残る傑作といっていいと客観的に思う。

復活したとはいえアステアはまだこの時49歳。そのダンスの切れはまだまだ輝いていて、アン・ミラーを
相手にしても若いジュディ・ガーランドを相手にしても、またソロを取らせても超一流の至芸を
鑑賞できる。
まさに「That's Entertainment!」である。映画の愉しさに満ち満ちた作品といえよう。今の時代には
そぐわないかも知れないが、物語も後年「ゲームの達人」で一世を風靡するシドニー・シェルダンらが
加わって作られていて、ちゃんとしている。エヴァーグリーンの一作である。
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<ストーリー:結末まで書かれています>
「ブルー・スカイ(1946)」をお名残に引退を声明していたフレッド・アステアを花々しくカムバックさせ、
ミュージカル物の大スターにのし上っていたジュディ・ガーランドと組んで主演させた音楽映画で、
「スイング・ホテル」と同じくアーヴィング・バーリンが作詞作曲している。
ストーリーはフランセス・グッドリッチとアルバート・ハケットの夫婦脚本チームが書きおろし、チームが
更にシドニー・シェルダンと協力して脚色し、「グッド・ニュース」に次いでチャールズ・ウォルターズが
監督に当たり、「愛の調べ」のハリー・ストラドリングが撮影してテクニカラー色彩映画で、ミュージカル
場面はロバート・アルトンが演出している。
主役2人を助けて、「下町天国」のピーター・ローフォード、「恋のブラジル」のアン・ミラー、映画初出演の
舞台喜劇俳優ジュールス・マンシュイン、クリントン・サンドバーグ、ジェニー・ルゴン等が出演する。
アーサー・フリード製作の1948年作品。

1912年。イースター・サンディを明日に控えた日に、ダンサーのドン・ヒューズはパートナーのナダイン・
ヘイルが彼とのパートナーを破って、好条件の契約をしたことを知ると、折柄来合わせた親友ジョナサン・
ハーロウの止めるのも聞かず町にとび出してしまった。
ドンの後を追ったジョナサンは酒場で苦い酒をのんでいる彼を発見した。ドンは口惜しまぎれに、かつて
ナダインをコーラス・ガールの中から見つけて自分のパートナーにしてやったように、酒場のどんな踊り子
でもナダインくらいのパートナーに、直ぐ仕立ててみせると云って、折柄酒場の舞台に立った踊り手ハンナに
彼の名刺を渡した。

翌朝、ドンは昨夜のでたらめに後悔したが、ハンナが来たので仕方なく練習を開始した。然しハンナは踊りの
基本も知らず、憂欝になってしまったドンが外に出て見ると、町はイースター・パレードで賑っている。
カメラマンたちに取りかこまれている女性はナダインだった。それを見たドンは失いかけた闘志を再び揮い
起こし、来年のイースターはハンナを必ずプリマドナにして見せると心に誓った。

チームを破ってジーグフェルドと契約したナダインは大成功だった。苦労しつつハンナを訓練して、ドンと
ハンナのチームは遂にうまく行くようになり、2人が踊り歌った「ラグタイム・バンド」は大成功で、
ジーグフェルドから契約交渉が来たが、ナダインと一緒に舞台に立つことをいさぎよしとしない彼は断然けった。

興行者デリンガムと契約した2人は、ボストン、フィラデルフィヤ等でロード・ショーを行ない、イースター・
サンディの前日に、ブロードウェイに進出することになった。ロード・ショーは大成功だった。気づかわれた
ブロードウェイでもドン・ハンナのチームはうけた。その夜2人がジーグフェルドの宴に臨むと来客は2人に
祝福をおくったが、これを見て心動かされたナダインは巧みにドンをハンナから引き離すと彼を独占して
しまった。

ドンを心から愛するようになったハンナは、かねてからドンがやはりナダインを愛しているのではないかと
心を苦しめていたが、此の様を見ると1人アパートへ帰ってしまった。一方やっとナダインから解放された
ドンは、愛するハンナを探し廻りアパートに訪ねたが、彼女は鍵をかけて入れなかった。
彼は外から誤解を訴えた。初めはナダインを取り返すために君とのチームを始めたんだが、君が一番
すばらしい女性であることが判ったんだ。
一夜明ればイースターの日曜日、誤解のとけた2人は「イースター・パレード」の歌を合唱して、満都の
拍手と喝采をうけた。(Movie Walker)

<IMDb=★7.5>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:90%  Audience Score:86%>




by jazzyoba0083 | 2018-06-16 12:00 | 洋画=あ行 | Trackback | Comments(0)

●「ラビング 愛という名前のふたり  Loving」
2016 アメリカ Raindog Films,Big Beach Films. 123min.
監督・脚本:ジェフ・ニコルズ
出演:ジョエル・エドガートン、ルース・ネッガ、マートン・ソーカス、ニック・クロール、マイケル・シャノン他
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<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>
何の前知識もなく観始めたのだが、本作はアメリカにおける異人種間結婚禁止を打ち破った画期的歴史的出来事に
基づいていた。ネットでいろいろとこの事件に関して調べてみたのだが、本作は事実にかなり忠実に再現されている
そうだ。連邦最高裁でヴァージニア州の州最高裁判所判決が覆った1967年6月12日を記念して毎年この日は
「ラヴィング・デイ」として祝われているという。

本作では、画期的判決を導き出した夫妻について描くのだが、一発の銃声もなく、投石もなく、割れるガラスの
音もせず、黒人を警棒で殴る白人警官も出てこず、ましてやKKKも出てこず、黒人を眼前で面罵する白人も出て
来ない。こうした黒人の人権開放映画はたくさんあるが、ここまで静かな映画はまれというか私個人は初めて観た
と思う。
音楽も含め、静かな物語の流れは、「愛し合う二人が家族とともに故郷で静かに暮らせること」という
たったそれだけのことを欲していた二人が、裁判という流れの中でも、その静謐さを守り続け、勝利しても英雄視
されることを好まず、「普通の暮らしがしたいだけ」という姿勢を貫く。その事が逆に、当時のアメリカ(南部)の
黒人たちの置かれた逆境を浮き彫りにし、今では当たり前であったことが、そうではなかった時代の苦悩を
あぶり出す。
特に物静かなリチャードは、声高に人種差別撤廃を叫ぶでもなく、ひたすら愛するミルドレッドと家族を守りたい
静かに一緒に暮らしたいと願うのみ。その考えや行動は映画を観ている人の胸を打つ。ひとりごとで「おかしい」
「それはおかしい」とつぶやくのみ。無鉄砲な行動には決して出ない。だから強い反体制派とも見なされない。
むしろ裁判に積極的だったのはミルドレッドの方だった。彼女とて団体に所属するとかデモをするとかオルグを
かけるとかは全くぜず、個人の問題としての裁判へと進んでいくのだ。
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白人であるリチャード(エドガートン)と黒人とネイティブアメリカンなどの混血ミルドレッド(ネッガ)は、
若い頃から恋愛関係にあり、周囲も認めるところであった。特にリチャードは黒人の友人を多数持ち、その事を
ごくごく当たり前の日常として生活していた。ミルドレッドが妊娠したことから、リチャードは結婚を決意、
1エーカーの土地を買い、そこでプロポーズした。
ヴァージニアでは異人種間の結婚が禁止されていたため、周囲は同棲でもいいじゃないか、と諌めるが、二人の
意志は固く、二人でワシントンDCに行き、ミルドレッドの父のみ参加しての式を挙げ、結婚証明書を貰って、
ヴァージニアに帰り、ミルドレッドの家で暮らし始めた。

しかし、二人が結婚して暮らし始めているという噂が警察の耳に入り、ある日保安官が寝込みを襲う。二人は
別々に収監されてしまう。白人であるリチャードは早々に釈放されるが、ミルドレッドは父が保釈金を積んで
やっと開放された。依頼した弁護士が判事と取引し、有罪を認めれば懲役1年に執行猶予をつけてやる、ただし、
25年間は州外に退去すること、という条件が付けられた。若い二人は故郷を離れ、DCの知り合いの家に
転げ込み、そこで生活することになる。

だが、ミルドレッドの、義母の家で産みたいという、たっての願いで、二人は別々に決死の思いでヴァージニアの
リチャードの家に帰る。無事にシドニーという男の子が産まれたが、どこからか噂を聞きつけた保安官がまた
やってきて、二人を逮捕する。州内に戻ったことで裁判となったが、弁護士が「私が、出産時には一時帰ることが
出来る、という勘違いの情報を教えたことが間違いだった。ミスだった。判事殿、申し訳ない」とその場を
取り繕い、なんとか難を逃れることが出来た。

DCに帰った二人にはその後3人の子どもが出来、リチャードは腕のいい左官工として真面目に働き家族を守って
いた。しかし特にミルドレッドはすさんだ黒人街のDCでは満足に子育ても出来ないと悩んだ。ある日、子供の
一人が遊んでいて車にハネられるという事故があり、幸い大事には至らなかったが、ミルドレッドは姉の
アドバイスも有り(姉は1963年のワシントン大行進の光景をテレビで観て、そう言った)当時のロバート・
ケネディ司法長官に、自分たちの置かれた境遇の理不尽さを訴える手紙を書いてみた。それがケネディの目に
止まり、長官は手紙をアメリカ自由人権協会(ACLU)という団体に渡し、そこのボランティア弁護士コーエンから
ミルドレッドに電話が掛かってくる。そこからラビング夫妻の長い裁判の時間が経過するのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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当時、キング牧師らの公民権運動はピークに差し掛かっていて、ACLUも連邦最高裁で黒人の人権を差別する
法律を撤廃させるための裁判材料を探していた。このことは別の映画でも観た記憶がある。
彼ら人権派弁護士らは、二人が受けている刑罰についての違法性をなんとか連邦最高裁に判断させようと
リチャードとミルドレッドと話し合いをする。まずは郡の判事に訴え、却下されたら州最高裁へ上訴、そこでも
負けるだろうから、そうすれば連邦最高裁へ上告出来る、と。当時ケネディ政権下の最高裁判事はおそらく
リベラル派で固められていただろうから、人権派弁護士としても、ヴァージニア州の「異人種間結婚禁止法」が
合衆国憲法に違反しているという判決を勝ち取りたかったのだ。

そして冒頭にも書いたとおり1967年6月12日、連邦最高裁はヴァージニア州最高裁が出したラビング夫妻への
有罪判決を取り消す判決を判事全員一致の意見として出した。二人は勝ったのだ。マスコミは殺到するが、
二人は、田舎で静かに暮らすのみ。やっと愛する二人と家族が一緒に暮らせる日が来たのだ。二人が望んで
いたのはそのことだけだったのだから。

この時点までで南部を中心に異人種間の結婚を禁止する州はまだ結構存在した。が、この判断で、連邦レベルで
そうした法律が無効となったのだ。思えばつい最近のことだ。
神は白人、黒人、黄色人、マレー人、赤色人に分け、それぞれの大陸に住まわせた。だから異人種が混交する
ことは神の摂理に反するのだ、という当時のヴァージア州などが規範としたキリスト教的倫理観はいまでも
アメリカに根強く存在する。私たちアジア人は人種である前に人間である、という大前提を割と簡単に理解出来
るが、キリスト教的な世界観の倫理観は私たちにはなかなか理解が難しいところがある。
アメリカでは現在ヒスパニック系が増え、アフリカ系、アジア系、らも増加し白人はマイノリティになりつつ
ある。そこらあたりにも強い白人の危機感がある。アメリカは白人の国でなければならないと。

ついこの前まで、普通に愛し合う二人が普通に暮らせない社会があった、ということを静かに訴えた本作、
当たり前の真実を曲げない信念を夫婦で分かち合っていたラビング夫妻の訴えは静かに、しかし多面的に
観る人の心を打ち、問題を投げかけてくるのである。
こうした映画は、次の場面で何かが起きる何かが起きるとドキドキするのだが、この映画はそういうことはない。
主演の二人の演出意図を踏まえた抑制の効いた演技は観るべきものが多かった。(ルース・ネッガは本作で
オスカー主演女優賞ノミネート)

ところで、裁判が進むに連れ、名前が知られ、夫妻の元に雑誌やテレビの取材が入るのだが、ライフ誌の記者を
演じたのがマイケル・シャノン。この人が出てくると、何かが起こりそうな予感がする。彼は夫妻一家と食事し
夜の団らんまで取材、「結婚という名の犯罪」という記事を書き、これがタイム誌に大きく掲載された。
どういう記事であったのか、読んでみたいものだ。

<IMDb=★7.0>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:90% Audience Score:76% >








by jazzyoba0083 | 2018-06-14 23:10 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)

●「私はダニエル・ブレイク I,Daniel Blake」
2016 イギリス・フランス・ベルギー Sixteen Films,Why Not Productions,Wild Bunch,and more 100min.
監督:ケン・ローチ
出演:デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ、ディラン・フィリップ・マキアナン、ブリアナ・シャン他
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<評価:★★★★★★★★☆☆>
<感想>
本作は2016年のカンヌ国際映画祭・パルム・ドール受賞作。イギリスの社会派監督ケン・ローチが二度目の同賞を
獲得したものだ。そして、今年のパルム・ドールが是枝裕和監督の「万引き家族」。なぜ二作を並列したか、というと
同じような内容を言わんとしているのだな、と感じたからだ。カンヌはこういう作風が好きなんだろう。以前感想を
書いた「たかが世界の終わり」が、本作と同年同時にパルム・ドールを獲っているから、極めて内省的だったり、社会を
告発するドラマとしての作りの良さなど評価軸になっているな、と思った次第だ。

「万引き家族」が極めて日本的な仕掛け(直接的告発をしない)で、社会が内在する「不寛容」や「機能不全」を指摘
していたのに比べ、本作「私はダニエル・ブレイク」は、ど直球で、イギリス社会のある側面を告発する。
「万引き家族」と似ていたな、と思われたのは、最後のシークエンスで問題点の明快な提示がなされるという手法。

是枝監督は「万引き家族」において、現代日本の『「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され
不可視の状態になっている人たち』の有様を突きつけることにより、観ている人に問題点を投げかける。
ケン・ローチの本作とアプローチは違えど、主張は通底している。是枝監督の『(前略)社会は排他的になり、
多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う』という文書に
触れるにつけ、その考えは確証へと変る。
2つの映画の根っこにあるものは「怒り」であり、ほとんど乱暴なくらいのエンディングはハッピーエンドではなく
鑑賞後の心には「重く」「切なく」「やりきれない」「怒り」が渦巻くのも共通だ。ただ、描き方がローチ監督の
本作の方が直截的で、是枝監督の作品は間接的、といえるだろう。

ダニエル・ブレイクはパソコンが使えない。しかし手当の申請はPCからしかできない。苦労しながらPCを学び
なんとかオンライン申請しようと苦闘するのだが、そのさまは、「自己責任」という便利な言葉で、社会的弱者を
疎外する現代社会の極めて深刻な問題のメタファーに他ならない。

本作では、イギリスの北にあるニューカッスルという街が舞台となり、心臓病を患い医師から就業を禁止されている
その道40年の大工であるダニエル・ブレイクが、職安で職につけない間の手当を、小役人の前例主義、ことなかれ
主義の前にたらい回しにあうさまを中心に、警察も含め、公権力という匿名性に守られ、結局税金で食っている役人
たち公僕が、公僕たる役目をなしてない実情を活写していく。
ダニエル・ブレイク本人の苦労と並走するように、彼の友人となるロンドンの施設から追いやられて来た幼い子供
二人を抱えたシングルマザー、ケイティの周辺も描くことにより、100分という決して長くない映画の中に、一般
市民が持つであろう社会の「理不尽」「融通・温情の無さ」「自分事と出来ない役人の冷たさ」を重層的に描いていく。

ケイティ一家とダニエルが「フードバンク」という貧しい人に食料や日用雑貨を提供する施設で、子どもに食事をさせる
ことを何日も優先してきたケイティが思わず棚の缶詰を開けて口に入れるというシーンが有る。ここはこの映画の中でも
極めて重いシーンだ。フードバンクのボランティアの親切な態度と役人らの冷徹さが自ずと浮かび上がらざるを得ない。

上記は観た人殆どが思うだろうが、イギリスのある町だけの話だけではなく、現在の日本でも、世界中で蔓延している
「不寛容」の実態だろう。本作にはいい人もたくさん出てくる。他人を心配する人も出てくる。だが、そうした個人の
善良さに寄りかかって、対応する福祉関係の税金を削りつづけることは許される社会ではないはずだ。
日本の役人にすべからく観ていただきたい作品だ。

本作のエンディングで亡くなってしまうダニエルの葬儀でケイティが、手当の不服申立のための書いた文章を読み上げる。

「私は依頼人でも、顧客でもユーザーでもない。怠け者でも たかり屋でも 物乞いでもない。国民保険番号でもなく、
エラー音でもない。きちんと税金を払ってきた。それを誇りに思っている。地位の高い者には媚びないが、隣人には手を
貸す。施しは要らない。私はダニエル・ブレイク。人間だ 犬ではない。当たり前の権利を要求する。敬意ある態度と
いうものを。私はダニエル・ブレイク 一人の市民だ。それ以上でもそれ以下でもない。」

さあ、これをどう受け止めるのか。
一旦引退を決意したローチ監督が、復帰してまで作らなければならなかった映画の重みが、ラストのダニエルの文章に
ある。

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<ストーリー>
社会派の名匠ケン・ローチ監督が、格差と分断が進む世の中で切り捨てられようとしている社会的弱者の心の叫びを
代弁し、カンヌ国際映画祭で「麦の穂をゆらす風」に続く2度目のパルム・ドールを受賞した感動のヒューマン・
ドラマ。実直に生きてきた大工職人が、病気をきっかけに理不尽な官僚的システムの犠牲となり、経済的・精神的に
追い詰められ、尊厳さえも奪われようとしていた時、同じように苦境に陥っていたシングルマザーとその子ども
たちと出会い、互いに助け合う中で次第に絆が芽生え、かすかな希望を取り戻していく姿を力強い筆致で描き出す。
主演はイギリスの人気コメディアンで、本作が初の映画出演となるデイヴ・ジョーンズ。

 イギリス北東部ニューカッスル。59歳のダニエル・ブレイクは、長年大工として働き、妻に先立たれた後も、
一人できちんとした生活を送り、真っ当な人生を歩んでいた。ところがある日、心臓病を患い、医者から仕事を
止められる。仕方なく国の援助を受けるべく手続きをしようとすると、頑迷なお役所仕事に次々と阻まれ、ひたすら
右往左往するハメに。すっかり途方に暮れてしまうダニエルだったが、そんな時、助けを求める若い女性に対する
職員の心ない対応を目の当たりにして、ついに彼の堪忍袋の緒が切れる。彼女は、幼い2人の子どもを抱えた
シングルマザーのケイティ。これをきっかけに、ケイティ親子との思いがけない交流が始まるダニエルだったが…。
(allcimena)

<IMDb=7.9>
<Rotten Tomatoes=Tomatometer:93% Audience Score:85% >



by jazzyoba0083 | 2018-06-13 23:30 | 洋画=ら~わ行 | Trackback | Comments(0)